悟りの窓

魂とつながる日本固有の自己成長の道

「自分が一番大切」から始まる世界を愛で満たす方法

約7分
「自分が一番大切」から始まる世界を愛で満たす方法

「自分が一番大切」というのは、すべての生物がそうであるように、私たち人間も同じです。

そういう意味で、自分より大切な人がいるという考え方は、ファンタジーです。

こう書いてしまうと身も蓋もないようですが、正しくあるがままを見ないかぎり、苦しみから救われることも内面的な成長もありません。

では、自分が一番大切というところから、世界のすべては愛であるという境地へたどり着けるのでしょうか?

私はそれは可能だと思います。そのプロセス、方法について考えてみました。

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1.「自分より大切な人がいる」という錯覚

「私には自分より大切な人がいる」と言葉を聞いたとき、どんなことを感じるでしょうか。

自分を投げ打ってでも相手を助けるという愛の深さでしょうか。

自分以外の人を自分以上に大切にする執着のなさでしょうか。

それとも犠牲的精神の美しさでしょうか。

残念ながら、冒頭に書いたように「自分より大切な人がいる」というのは、美しい幻想です。

(1) 幻想の弊害

幻想である理由は後で説明するとして、先に弊害を見てみましょう。

このような幻想を抱く理由としては、まず、そこに自己価値を置いてしまうことです。

つまり、自分より人を大切にする自分って、なんて愛に溢れた人、なんて勇気がある、なんて潔い、なんて家族(または親友など自分より大切な人)思いなの、という感じの自己陶酔です。

こうした思いは、本人も気づいていないことが多いかもしれません。

所詮は幻想ですから、本当の価値ではなく、偽りのそれです。

本来は自分の存在そのものに価値があるわけですが、それを感じられないので、間に合わせの代用品です。

そこにハマってしまうと、自己価値を維持するために自己犠牲の度合いが増していき、やがて疲弊してしまうことが考えられます。

自己犠牲が高じると相手に対して見返りを求める気持ちも増していき、相手が思った通りに動いてくれないと、こんなにしてあげてるのにといった感じで不満が高まっていくこともおおいでしょう。

次に、相手に対する執着です。

相手が大切なのではなく、執着している相手を失って自分が悲しいのが嫌なので、相手が大切であることにすり替えているのです。

この場合も、そんな自分勝手な自分を認めたくなくて、自覚していないことが多いと思います。

自分の都合で相手を自分より大切な存在として祭り上げている人にかぎって、同様に相手を思い通りに動かそうとするから厄介です。

(2) 幻想である理由

誰しもスタートは、すべての動物と同じように「自分が一番大事」です。

では、ゴールとなる理想の状態はどういうものでしょうか。

たとえば、悟った人ならどういう風に考えるでしょうか。

自他一体、全ては一つというワンネスの考え方からすると、自分と他人に差はなく同じくらい大切ということになると思います。

つまり、自分>他人からスタートして、理想形の自分=他人となって終了です。

自分<他人となってしまっては行き過ぎであり、上にあげたような要因で自分を不当に低く位置付けてしまっているのです。

ほかに、生き残り問題について考えてみたいと思います。

自分と相手とどちらかしか助けられないとしたら、どちらを選ぶかという言わば究極の選択です。

悟った人はそういう状況に陥らないのかもしれませんが、そこはさておいて、あえて考えてみます。

私の考えでは、命の価値としてはどちらも同じだけ大切なので、もし悟った人が選択するならその時最も適した基準をもとに選択するように思えます。

たとえば、自分と相手の年齢とか、社会に対して貢献できる度合いとか、人間以外も含めたすべての存在にとってどちらがよりベターかという基準での選択になるように思います。

ですから、そこには、自分より大切な”人”がいるわけではなく、ある状況下において最適な物差しでの”選択”があるだけということかと思います。

だから、自分より大切な人がいるという考えは、錯覚であると認めましょう。

そして、自分が一番大切と認めましょう。

作家の五木寛之さんはこんな風におっしゃっています。

『人間は誰でも自分がいちばん大切なのです。
そして、そのことをほんとうに自覚した人間だけが、
自然なかたちで他人を大切に思うことができる』

五木寛之

2. 「自分が一番大切」と「自分さえよればいい」は似て非なるもの

自分が一番大切というと、「じゃあ、自分さえよければいいの?」と思ってしまう人もいるかもしれません。

私たちは、子供の頃からさんざん「人のために役にたつ人間になりなさい」、「自分は後回しにしなさい」と教えられてきました。

だから、両者を混同してしまい、自分が一番大切という考え方に罪悪感を覚えてしまうのかもしれません。

しかしながら、両者は似て非なるものです。

自分さえよければいいは、そりゃあダメでしょう。

みんながそんな考えになったら、この世は地獄です。

一方、自分だけがそんな考えを持っていたら、最初は人のよい相手からうまいこと奪えるでしょうが、やがて誰からも相手にされなくなるのは目に見えています。

そうでなく、自分が一番大切というのは、自分は一番だけど、その次に相手も同じように大切にするということです。

そもそも、人は助け合わないと一人では生きられないからです。現代生活をしていて、電気、ガス、水道、食事、服に始まり、他人の仕事の恩恵を受けていない人はいないでしょう。

だから、完全な自然状態では、現代人が生き残ることはむずかしいのです。

いくら自分が大事でも、心の面、実際面ともに、人は一人では生きられません。

動物は本能まかせなのでお気楽です。

そこに人間ならではの迷いや悩み苦しみが生まれます。

3. 自分と他人の折り合いをどうつけるか

では、動物でない人間はどうしたらいいのでしょう。

その方策として、まずは自分の幸せを願うことです。

「自分が一番大切」という原則どおりです。

そして次に、自分と同じように他人を扱い、他人の幸せを願うことです。

ぶつかった場合は、自分優先でよいのです。

相手にゆずる方が自分が心地いいなら、そちらを選択することが自分優先です。

自己犠牲も同じです。

自分が心地いいための相手優先ならば、相手に見返りを求めません

また、結局自分のためにやっているので、自惚れることも避けられます

このようにまずは自分、次に相手の幸せを祈るのが、「慈悲の瞑想」です。

自分と他人の折り合いをうまくつけながら、心が磨かれていく手法です。

4. さらに高みを目指すには

その上で、さらに高みを目指す上でも、仏教の考え方を拝借しましょう。

慈悲喜捨という言葉がありますが、このうち、喜捨を実践することが有効です。

ちなみに、慈悲とは、相手の幸福を祈ることと悲しみがなくなるように願うことであり、前項の内容がそれにあたります。

喜捨とは、僧侶の方がご著書で以下のように説明されています。

喜【喜の心】──これは、相手の喜び・楽しさをそのまま理解すること。相手の「喜」に共感することです。

捨【捨の心】──これは、手放す心、捨て置く心、反応しない心です。「中立心」ともいいます。たとえば、欲や怒りという反応に気づいて、ストップをかける心がけです。

「反応しない練習 あらゆる悩みが消えていくブッダの超・合理的な『考え方』」草薙龍瞬

<喜>のむずかしいところは、自分が満たされた状態でないと、どうしても妬みや羨みが先に立ち、相手の喜びを純粋に喜んであげられないことです。

自分を満たし、過去に満たされずに傷ついた心の傷をケアすることが必要になってきます。

<捨>の心も同様です。反応するのには、原因があります。

その原因を取り除くため、瞑想したり、マインドフルネスでいることに取り組んだり、自分の心を内観して原因の解消に取り組むことが必要です。

その取り組みは高度なので、専門家の助けを借りることもよいでしょう。

5. まとめ

先ほどご本を引用した僧侶の草薙さんは、慈悲喜捨は愛だとおっしゃっています。

たしかに、自分と同じように他人の幸福を願い、苦しみがなくなれと祈り、喜びに共感することが分け隔てのない愛であるというのは共感できます。

それを実践する過程で、自分の心に刺さったトゲや心の傷をケアして癒していくことで、私たちの本来の姿である愛に還っていくことができるのでしょう。

その出発点は、やはり「自分が一番」という真実だと思います。

以上

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この記事を書いた人

祇場 駿矢(しば しゅんや)
幼い頃から「人は何のために生きるのか」「人はどこからきてどこへ行くのか」「ここは自分がいる場所ではない」などと考える子供だった。

ところが、昭和の成功の常識に染まり、京大法学部からメガバンクに。バブル崩壊からITバブル、リーマンショックなど日本経済の栄枯盛衰を経験。

忙しい毎日を送りつつも、目に見えるモノ(物質、金銭、地位、肩書き)では、決して心が満たされることはないことに気づく。

世間的なうたかたの価値に見切りをつけ、人間が生きることの本質的価値を探究して2014年に銀行を退職、起業する。

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