悟りの窓

魂とつながる日本固有の自己成長の道

人生の目的はなにか?〜人として生きる尊さ〜

約13分
人生の目的はなにか?〜人として生きる尊さ〜

人は何のために生きるのか、人生に意味はあるのか、生まれてきた目的はあるのか。

多くの人が人生のある時期、真剣に考え、また、悩みもする質問ではないでしょうか。

いくら考えても答えは見つからず、親に聞いても誰に聞いても、ネットで調べても、確たる答えらしきものは得られません。

そのうち、押し寄せてくる目の前のやるべきことに流され、考えることさえやめてしまう人が多いのでしょう。

それが分別のある大人の振る舞いだと言わんばかりです。

でも、人生の目的という、根本的な問いに確たる答えを持たずして生きるのは、夜の海を灯台という目標も羅針盤もないまま彷徨うようなものではないかとさえ思います。

人間は複雑なことをやっているように見えて、「ある考え方」をすれば、案外シンプルなものです。

そこから人生の目的を導いてみたいと思います。

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1. 人と動物の差

仏教の教えでは、人間に生まれることは大変希少なことであり、価値があることとされています。

それがどれほど貴重かについて、こんなたとえで語られています。

人趣に生まるるものは、爪の上の土のごとし。三途に堕つるものは、十方の土のごとし

(涅槃経)

人間に生まれるものは、爪の上の砂のように少なく、三悪道(地獄・餓鬼・畜生の苦しみの世界)に堕ちる者は、大宇宙の砂の数ほど多いという意味です。

また、雑阿含経には「盲亀浮木(もうきふぼく)」という例えがあります。

100年に一度息を吸うために海面に上がってくる盲亀が、浮上した際、大海を漂う一本の流木に開いた穴に、たまたま頭を突っ込むことなど普通は考えられない。

しかし、何千万、何億年という気の遠くなるような時間のうちには、そんな偶然が絶対に起きないとは否定しきれないだろう。

人間に生まれるとは、それほどまでに希少で価値があることなのだと、お釈迦様は言っています。

また、仏教には、菩薩(仏に次ぐ境地)の誓いの一つに「衆生無辺誓願度」、すなわち、生きとし生けるものを分け隔てなく救済することを誓う、というものがあります。

このように仏教は、すべての生命に対して、分け隔てなく慈悲を垂れるのを基本的な思想しています。

その仏教が、なぜ人間に生まれることをことさら特別なことと位置付けているのでしょうか。

そこから人間の生きる意味を見出していけると考えています。次の項からは、動物と人間の生き方の違いという視点で見てみることにします。

2. 動物レベルの生き方

まず、動物の本分とは何でしょうか。

それは、食べることと繁殖することです。

野生動物の生態を観察すると、活動時間のほとんどを食べ物を得ることを含めた広い意味での食べることに費やしています。

あとの時間は活動で失われた体力を回復するための休息・睡眠に当てられます。

そして、時期が来れば、繁殖活動を行います。

食べなければ生きられませんし、繁殖しなければ命をつなげませんから、煎じ詰めれば、動物のが生きる目的は、とにもかくにも「生きること」それ自体と言えます。

言ってみれば「生きるために生きている」わけです。

これには理屈も何もなく、そうなっているからそうなのです。あえて言うなら、宇宙の理(ことわり)そのものと言えるでしょう。

3. 人間の生き方の特徴

(1) 人間もまた動物

そして、人間もまた動物であり、同じ理にしたがって生きています。

歴史を遡れば、人間も他の動物と同様、食べ物を探す、育てることを含めた食べるための活動が人生の大半でした。

それが文明の発達により、効率的に食べ物を得たり、食べ物を保存することができるようになり、他の活動に当てられる時間が増えていきました。

また、現在では、人は、分業化、専門化という役割分担の中で、大半の人が直接食べ物を得る活動をする代わりに、他の人のために働いてお金を稼ぐ活動をします。

仕事、と呼ばれる活動です。食うために働くという言葉に端的に表されているとおり、仕事は一義的には食べるための活動であることに異論はないでしょう。

そして、現代でも、ほとんどの場合、人が仕事に注ぐ時間とエネルギーは、人の活動の中で最大の比率を占めています。

食べるために働き、生きるために食べ、子孫を残すのは、いつの時代も変わらない、動物である人間の最もベーシックな活動です。

(2) 人生の目的は幸せになること?

では、仏教が「人身受け難し」と人間に生まれることに特段の価値を見出した理由は一体なんでしょうか。

「生きるために生きる」というだけでは動物と同じレベルですので、その先にある活動ということになります。

仕事以外の活動というと、まず思い浮かぶのが余暇活動、余暇という言葉自体、仕事以外の余った時間という意味ですね!つまり、趣味や娯楽、レジャーなどです。

これらの活動は、楽しみや喜びを生むことを目的としており、同時に仕事で受けたストレスからの回復という意味合いもあるでしょう。

こうしたことから、人が生きる目的は、「喜びや楽しみを生むこと」さらに一般化して「幸せになること」と総括する意見も見られます。

でも、私はそれだけでは漠然としていて十分でないと感じます。

何を幸せとするかは十人十色というとおり、幸せの中身が漠然としすぎているからです。

(3) 現代における幸せの追求とは

具体的に、現代の多くの人がやっている幸せの追求とはなんでしょうか。SNSを眺めていると、たくさん見つかりますね。

美味しいものが食べたい、きれいな服が着たい、素敵な恋人が欲しい、人に認められたい、いい家に住みたい、楽しいことがしたい、、、

一方で、こんな本音も見え隠れします。しんどいことは避けたい、責任は取りたくない、めんどくさい人間関係はいや、傷つけられたくない、ラクがしたい、、、

NLP(神経言語プログラミング)では、人間の行動は「快楽を求め、苦痛を避ける」という「本能」に基づくと解説されています。

でも、ちょっと待って。

「快を求め、苦を避ける」ことって動物でもやってますよね。

牛や馬でも、鞭打たれるのは嫌がるし、みずみずしい牧草を与えると喜びます。

上のNLPによる説明でも「本能」と言い切ってますが、ただ本能のままに生きることが、人間ならではの活動であるはずがありません。

生きる上での喜びや楽しみを求めることを否定するつもりはさらさらありません。でも、それだけでは人間様と威張れるような価値がどこにもないのは明らかです。

やっぱり、何を幸せと感じるかという、幸せの「中身」が問題なのです。

4. 人間が自然に対して果たす役割

(1) ケアテイカー

ちょっと視点を変えて、自然の中の、より広く地球の生態系の中における、動物とは違う人間ならではの役割とは何でしょうか。

ネイティブ・アメリカンには、ケアテイカーという考え方があります。

つまり、人間は自然の世話役であるという考え方です。

たとえば、樹木が過密に生息すると競合しあってどの木もうまく育たなくなることがあります。

そこに人間の手が入り、このままいくとちゃんと成長できないであろう木を伐採して生活のために活用するのです。

人の手が入って間伐を行うことで、森全体が健全に育つのだそうです。

このようにネイティブ・アメリカンは、人間の側の都合だけではなく、自分たちを活かしてくれる自然がよりよくなるように、という視点で自然と関わっていました。

(2) がん細胞

一方で、意識と現実の関係をリアルに描いた伝説的映画「マトリックス」の中で、ある登場人物は、人間をがん細胞に例えています。

他のすべての生物は、自然の秩序の中でそれぞれの分を守って生きている。

それなのに人間は、限度を知らず増え続け、自然を都合よく開発し、資源を浪費し、環境を汚染し、自分たちのが生きる基盤である地球自体を危機に晒している。

がん細胞が、身体中のどこでもところかまわずに転移、増殖し続け、しまいには自分もその一部である人間の体を死に至らしめ、がん細胞自らが滅ぶのと似ていると。

この説を披露した映画の登場人物は、コンピュータの世界を管理するプログラムが人格を備えた存在という設定でした。

主人公に敵対する悪役でしたが、彼もまたコンピュータの世界の秩序を守る役どころ、つまり、一種のケアテイカーでした。

本来この世界のケアテイカーであるはずの人間が、がん細胞のような生き方をしていることはたしかに否定しきれないように感じます。

これでは自然と調和している動物以下であり、人間として非常に残念な状態と言わざるを得ません。

(3) 自由意志を持つ牽引役

ケアテイカーとがん細胞。

動物と異なり人間だけが、どちらを選ぶこともできる自由意志を持っています。

正反対の生き方を選びうる人間は、やはり他の動物とはまるで異質の存在です。

そして、人間の意識は、目に見えない領域においても他のすべての生命に影響を与えているのだと思います。

心の内側にある思いが外側の現実を創造していると考えるなら、それは当然でしょう。自然と調和した意識は自然を生き生きと活性化し、その逆もしかりです。

けれど、平気で自然を破壊する人々は、人の意識がどうあれ外の世界とは全く別次元の話だと考えているようです。

生きとし生きるものは魂を持っていて生まれ変わり、長い時間をかけて進化の道を歩いています。

人間は地球にあって最も進んだ部類の魂であり、地球上の全生命に影響を与え、意識の進化をけん引する役割なのでしょう。

それは単に道の先を歩いているというだけであって、人間だから偉いとか、他の生命を好きなようにしていいということではありません。

そこから、動物のレベルを超える人間レベルの生き方が見えてきます。

5. 人間レベルの生き方

これまでの考えをもとに、動物レベルを超えた人間レベルの生き方とはどのようなものでしょうか。

(1) 人生の目的は魂の成長

それは、ケアテイカーとがん細胞、つまり、調和と成長を促すことと破滅と死に向かうこと、どちらも選択できる自由を持ちつつ、前者を志す生き方です。

この世界は二元の世界です。光と闇、善と悪、陰と陽、正と負、快と不快、男性性と女性性、、、

両者を「統合」し、元々一つであったものに向かうのか、その逆にさらに「分離」に向かうのか。

元々の一つとは、一なるもの、普遍意識、大いなる存在、大我、宇宙、神、ブラフマン、タオ、さまざまな呼ばれ方をします。感覚としてイメージしやすいところでは、愛であり、光です。

統合に向かうとき、人は愛や光(二元性の光とは別)を感じます。感謝が湧き、喜び、平安、安心感、自己肯定など、ポジティブなものを感じます。

分離に向かう時、孤独、絶望、自己否定、無価値感、悲しみ、怒りなど、ネガティブなものを感じます。

生まれ変わる魂という考え方で説明するなら、「魂を磨いて成長する」ということです。

魂の波動、バイブレーションを高めて、一なるもの、すなわち、愛のバイブレーションに近づき続けるということです。

(2) 人間レベルの幸せ

先に、「幸せの中身」が重要という話をしました。

動物レベルの幸せに終始しては人として生まれた甲斐がないわけですが、人間レベルの幸せとは何でしょうか。

それは、前項で述べた「愛や光を感じる活動」を行うことに伴う幸せです。

具体的な表現のかたちは、まさに十人十色、人の数だけ存在します。自分の個性を活かして、人の役に立ったり、喜んでもらえたり、奉仕したりといった活動であることが多いでしょう。

注意すべきは、 自分自身が愛や光を感じることが最も重要なことです。人の役に立つことや喜ばせることを第一の目的とするとどんどんズレていってしまいます。

こうした活動が仕事(職業)になっていると、幸せな状態が安定しやすいと言えます。

その仕事は食べるためという目的を超え、意識しているかどうかは別として、自分が高まり成長することが主な目的となっていきます。

このような状態の人は、もはやお金のために仕事をしているとは考えていません。

仕事をとおして人に奉仕することを生きがいと感じていたり、自分はこれをするために生まれてきたと考えていたりするかもしれません。

(3) 「悟りに向かう取組み」の重要さ

前項のように、人は仕事をとおして、愛を表現し、魂を成長させる、すなわち人間として生まれてきた目的を果たすことができます。

特に、歴史に名を残す偉大な人物の場合、仕事というより人生そのものが、人間が無限に成長する可能性を秘めた存在であることを雄弁に物語っています。

このような人の伝記を読むと、まさに運命に導かれるように、多くは順風満帆とは逆のその運命を主体的に受け入れることで、偉大な人物へと成長していきます。

このような運命の下に生まれていない私たちは、もう少し意識して、愛に近づいて自分を成長させる取り組みを行う必要があるようです。

例えば仕事を例にとると、ほとんどの人は食べるためという目的に加えて、純粋な奉仕以外の目的を載せています。

具体的には、人から認められたい、褒められたい、大事にしてほしい、何かに帰属したいなど、個としての自分を満たすための欲求です。

もちろんそれ自体は悪くないのですが、欲求が叶えられたり叶えられなかったりするものだから、その実現にばかり意識がいって、結局、魂の成長など二の次、三の次になってしまうのです。

だからこそ、直接、魂の成長を目的とする取組みが重要なのです。

このような取組みを「悟りに向かう取組み」ということにしましょう。

ここでいう「悟り」は仏教でいうお釈迦さまの悟りより、さらに上へと、無限である宇宙と同等の境地まで続くイメージです。

(4) 「悟りに向かう取組み」とは

それでは、具体的に「悟りに向かう取組み」とはなんでしょうか。

それは人の心のさまざまな面に様々なアプローチで働きかける、多岐にわたる概念なため、全てを列挙することは不可能です。

極限すると、愛という究極の一なるものに向かうという定義から、意識の向け方次第ですべての活動が該当し得るとさえ言えるでしょう。

イメージを持ってもらいやすいようにキーワードを挙げるなら、やはり「統合」になるでしょう。

ものの見方を例にとると、分離の世界で二つに見えているものが実は一つだったことに気が付いていくこと、一面だけ見て評価判断していたものを両面から見るとか、過去と未来に分離している思考を今ここに集約することなどです。

さらに卑近な例を出すと、水と油のようにいがみ合い相容れないように見えた二人が、実は同じ価値観に基づいて主張している、つまり、価値観を共有する似た者同士ということがあります。

「相手をよくしたい」という思いから、「厳しくつらく当たる」行動に出ることもあれば、「相手の主体性を尊重し努力を引き出す」行動をとることもあるかもしれません。

すべての物事には両面があり、メリットデメリット、良い点悪い点は同じだけあってバランスしているとはよく言われます。

この理屈を納得する人は多いですが、実生活ではそうはいきません。

理不尽な要求をする上司、口うるさく部屋を片付けるように要求する家族、自分の都合で振り回す腐れ縁の友人などの言動を目の前にすると、とてもそうは思えないのが実情ではないでしょうか。

けれど、宇宙法則には一つの例外もありません。

「これだけは例外だ」と言い切ってしまう自分は、宇宙法則を超越した存在でしょうか。それこそ傲慢なのではないでしょうか。

「悟りに向かう取組み」は、自分の内面に向き合うことで、自分の傲慢さや見て見ぬ振りをしていたことを受け入れることです。

それは、思い込みだけでなく、感情の滞りや、トラウマという形で潜在意識に持っていたりします。

それらを浄化し、統合していくことが、魂のレベルでの成長を促す取組みとなるのです。

6. まとめ

人間には動物レベルで生きるだけでなく、人間レベルで生きることで、全ての生命をよい方向に導くという持って生まれた役割があります。

にもかかわらず、動物レベルでしか生きていない人は、残念ながら人間に生まれた目的を果たしていません。

今日、動物レベルでしか生きていない人間が増えたことが、意識の面でも、物理的な面でも、地球規模で大きな問題を引き起こしています。

気づいた人の責任は重大です。気づいた人から、人間が生きる目的を果たすことが大切なのです。

人として生きることの尊さを知り、人にしか許されない幸せを感じて生きようではありませんか。

以上

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この記事を書いた人

祇場 駿矢(しば しゅんや)
幼い頃から「人は何のために生きるのか」「人はどこからきてどこへ行くのか」「ここは自分がいる場所ではない」などと考える子供だった。

ところが、昭和の成功の常識に染まり、京大法学部からメガバンクに。バブル崩壊からITバブル、リーマンショックなど日本経済の栄枯盛衰を経験。

忙しい毎日を送りつつも、目に見えるモノ(物質、金銭、地位、肩書き)では、決して心が満たされることはないことに気づく。

世間的なうたかたの価値に見切りをつけ、人間が生きることの本質的価値を探究して2014年に銀行を退職、起業する。

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