「悟ると感情はどうなるのか?」
この問いは、悟りに関心を持つ人にとってなかなか興味を引く問いのようです。ネット上でも様々な意見が飛び交っています。
主なものを見てみたところ、悟りと感情について書かれているにもかかわらず、それらがきちんと定義されていなかったり、定義がちょっと疑問だったりするものが大半でした。
このように悟りと感情の関係について、明解に答えているものが見当たらなかったので、自分なりにまとめてみました。
まず、感情は心の一部(の働き)であり、悟りは特定の心の状態であると考えられます。
したがって、心が悟りという状態になった時、感情はどのように働くのか、あるいは働かないのかが、この問いの意味するところでしょう。
結論から言えば、悟りの状態になったとき、感情の働きはなくなりません。
普段は穏やかな喜びに満ちた状態が基本となります。
何かが起きた時も、感情が大きく揺れることはなくなります。
感情の大波はなくなり感情に飲み込まれることはなくなる反面、さざ波程度の微妙の動きであっても、しっかり感じ取って味わえる状態です。
一般的には、感情豊かに生き生きと生きている状態でしょう。そして、感情は後を引くことなく速やかに落ち着き、元の穏やかな状態を取り戻します。
それが悟った人の感情面の生活です。なぜこのようになるのか、その理由を順序立てて説明していきましょう。
1.悟りと感情に関するよくある誤解
世の中には、悟りを開いた人は「何が起きても動じない」「いつも冷静沈着」というイメージが強くあるようです。
これはこれで間違いではないですが、悟りを開くと感情を感じなくなるとか、極端になると、ロボットみたいになってしまうと考える人がいます。
これはちょっと考えたらおかしいというのがすぐにわかります。
多くの人が悟りを目指す目的は、人間としての悩み苦しみから抜け出し、幸せになるためではないでしょうか。
だとしたら、感情がなくなってしまうと、人としての幸せさえ感じられなくなってしまいます。これでは本末転倒です。
そもそも、感情は感じようとしなくても生きている限り、自然に湧いてくるものです。
なぜ感情が湧くのかについては、その原因となるものが心の中にあるからですが、悟ったとしてもそれが全くなくなることはありません。
だからこそ、感情とはなにか、悟りとはなにかについて正しく理解することが大切なのです。
2.語られることのない感情の正体
悟りと感情について、いろんな人が書いていますが、感情が果たしてなんなのか正確に記載している人は見た範囲では一人もいませんでした。
怒り、悲しみなどの感情が、多くの人にとってあまりに身近であり、自明として扱われているのかもしれません。
感情の正体は、生命エネルギーの一種です。その原形となるものは、ポジティブでもネガティブでもありません。
それが、出来事など外部からの刺激に、心の中にある何かが反応して、感情が生まれます。
出来事 + 解釈 → 感情
と表してもよいでしょう。
この式のベースとなっている心の構造をもう少し詳しく説明しましょう。
心は3層構造からなっていると考えられます。
第1層が、いわゆる顕在意識に近いものです。自分という意識や思考による固定観念や思い込みなどです。解釈を生み出す物差しとなるものです。
顕在意識と言いましたが、人は自分が見たくないものは見ないことにするので、一部が潜在意識となっています。
第2層が感情です。
そして、第3層が心の深い部分。潜在意識といってよいでしょう。本質的な自己、俗にいう魂が中心です。この層には、トラウマと呼ばれる心の傷があります。
このように感情は、第1層と第3層の中間に位置するのですが、この位置関係が感情の正体を読み解くヒントになります。
一つは、感情は潜在意識からのメッセージです。
魂が震えるような、という例えがありますが、魂は言葉を発しません。だから、感情を使ってメッセージを伝えるのです。
また、「自分は愛されていない」というトラウマがあるとします。そのトラウマが刺激されるような体験をすると、ネガティブな感情が湧きます。
その感情のおかげで、トラウマの存在を知ることができるのです。
感情自体はもともと無色透明であるがゆえに、ポジティブとネガティブ、どちらのメッセージもうまく伝えることができるのです。
また、流動性が高いので、メッセージを伝えたらすぐに流れ去って、次のメッセージに備えることができます。
感情のもう一つの働きは、行動を起こす原動力です。買い物をするとき人は、感情で決定し、思考で理由づけすると言います。
衝動買いという言葉がありますが、購買という強い衝動を起こさせるのが感情です。思考だけでは不足しがちな行動のエネルギーを感情が補っているのです。
そして、このように本来、無色透明で流動性の高い感情ですが、多くの人が滞らせています。ネガティブな感情を感じなかったり、抑え込んでしまうからです。
メッセージが開封されないとメールが受信ボックスに溜まっていくようなものですが、そうなると無色透明でサラサラだった感情のエネルギーは粘性を増し、濁ってくることになります。
悟っている人の特徴として、このような感情の滞りがないことが挙げられます。自分を見つめる過程で、置き去りにしてきた感情の滞りに直面し、解放しているためです。
感情についてかなり明らかになったところで、悟りについて見ていきます。
3.悟りに関するありがちな誤解
それでは、次に、悟りに関する誤解を紐解いてみます。
(1)一瞥体験との混同
一つ目は一瞥体験で悟ったと感じることです。
覚醒体験、見性体験などとも言いますが、要するに一時的に意識の状態が変化して、自分とすべてがつながっていたり、至福感に包まれる体験のことです。
これは心の成長を示す一つの指標ではありますが、悟りとは別のものです。
喩えていうと、今いるのがマンションの1階だとして、悟りの境地が2階だとします。それで、ちょっとの間だけ、2階の様子を見学するのが一瞥体験です。
これに対して、本当の悟りは2階に住むようになることです。ここを混同するからややこしくなっている気がします。
(2)思考停止が悟りなのか?
よくある誤解の二つ目です。一つ目の誤解とも関連しますが、悟りは今ここにあるから、今この瞬間にも悟れると言います。
思考することをやめて、あるがままの自分を認めればいいと。
たしかに、その側面はあります。自分という意識の本質は、本来一なる普遍意識が分離を体験するための方便ですから。
その人の条件が整っていれば、一瞥体験は可能になるでしょう。
しかし、それが終わった後はどうでしょう?
悟った人として生きられるでしょうか。
ある人はその体験に執着して得られず、悩みを深くします。
またある人は、自分を特別とか偉いとか思い違いし、エゴを肥大させます。
そうでなくても、一瞥体験のあとも、日々の生活は続いていきます。今日のお昼ご飯に何を食べるかに始まって、人生で何をし、何をしないか、選択しなければなりません。
これって果たして思考が停止した状態で可能なのでしょうか。
本来の悟りとは、心の各部分がクリアになって滞りがない状態です。
第2層の感情については、上で述べたとおりです。感情本来の無色透明のサラサラしたエネルギーになることです。
第1層については、思い込みや固定観念が外れます。人はこれらに基づいて、善悪を判断し、自分が正しいと考えます。
それに反する他人は許せないし、思い通りにしようとします。お釈迦様はその思いからすべての苦が生じていると言いました。
悟った人では、思い込みや固定観念の反対側の視点があるので、どちらもあり、どちらも正しくて同時に誤っているとなります。
これがいわゆるニュートラルな状態です。どちらでもいいのでこtだわりがなく自由です。
そして、潜在意識の奥深くにある第3層のトラウマも癒えています。トラウマがあっては、第1層の思い込み、第2層の感情解放もスムーズに進みません。
手放す際に大きな痛みを伴うからです。
こうして、悟った状態とは、第1~第3層がそれぞれクリアになって滞りがなくなった状態です。
すると、第1層にある自分という意識(顕在意識)からは、俗な表現をすれば、魂の声が聞こえやすい状態になります。
つまり、深いところにある本当の自分のことがわかるという状態です。
ギリシャのデルフォイ神殿に掲げられた「汝自身を知れ」という箴言は哲学の原点とも言われるとおり、自分を知るということは究極です。
だから、自分自身やそれを取り巻く(実は一体である)世界をわかっていることが悟るということなのです。
4.悟りと感情の明解な関係まとめ
このように悟りと感情について、しっかり定義してきました。そうすると、悟りと感情の関係性の理由も自ずと明らかになったことと思います。
冒頭、悟りを開いた人は「何が起きても動じない」「いつも冷静沈着」というイメージがあると書きました。
最後にその理由を明らかにしておこうと思います。
何が起きても動じないのではなく、感情が動いても、その感情に巻き込まれにくいのです。
感情の粘性が増していると、しばらくは感情の動きを察知しにくい反面、ある一定レベルを超えると爆発したようになって手がつけられなくなります。
悟っている人は、微細な段階で感情の動きを感じることでエネルギーを解放してしまうのです。
そして、後を引くことなくすぐに元に戻るので、はたからは「いつも」冷静というように見えるのです。
そして、魂が発する波動は、精妙な喜びのエネルギーです。
悟っている人の心のうちは、静かな喜びに満ちていながら、常に感謝に溢れている。そんな状態であるようです。