私の身の回りで、世の中をよくしたいという思いを持つ人は少なくないと感じます。
セミナーなどで出会う人も、Facebookで繋がっている人たちも、人にやさしいし、世の中が住みよい場所になるよう願っている人が多くいます。
とはいえ、自分が具体的に何をするのか明確でなく、実際に行動しているわけではない人もたくさんいるように思います。
もし仮に全員の想いや情熱をしっかりと活かすことができたら、確実に世の中は変わります。
そのために、私は、一人一人が外部に向けていきなり何かをするのではなく、まずは自分の内側から始めるべきと考えていますが、以下でその理由をまとめてみました。
1. 外側に働きかけてもうまくいかない理由
(1) 生活に追われる毎日
一億総中流と呼ばれたのはいつの時代か、格差社会と言われ、就職、結婚、子育てなど人として当たり前の幸せを手にすることさえ、普通に生きていては難しい世の中です。
毎日やることが雪崩のように押し寄せてきて、それをこなすので精一杯、気がつくと夜で、自分の時間なんか1日のうちのほんのわずかです。
ある人は会社が長時間労働をよしとする古い体質で、毎日遅くまで付き合い残業を余儀なくされたり。早く帰ろうものなら、周りの冷たい視線に晒される覚悟が必要です。
ある人は子供が小さくて手がかかり、保育園への迎えの時間に間に合うよう仕事を終わらせることで毎日ヒヤヒヤしていたり。そんな理由で早く帰ることで周りからどんなふうに見られているかも気になります。
肉体的な負担もかなりのものですが、それ以上に、やりたいことをやる時間を確保するというそれだけのことで、精神的にもかなりのエネルギーを消費します。
これでは、世の中のために何ができるかなんて、考えてみる時間をとることさえ容易ではありません。
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それでも、まず身近なところで、できることで小さな一歩からという気持ちで、何かのボランティアに参加してみます。
普段と違う人との付き合いが新鮮でやりがいもあり、しばらくは楽しいかも知れません。
けれど、多くの場合は、なかなか活動の成果が見えない、人間関係がむずかしい、活動が土日主体になり家庭生活とのバランスが崩れやすいといった理由で疲れてしまい、継続していくのは容易ではないようです。
無力感を感じて、結局自分にできることはないとあきらめてしまうかもしれません。
世の中のために何かをすることと、個人として生活していくことは、それが自分の仕事であるような幸せなケースを除けば、たいていの場合相容れないのです。
以下では、内面的な理由について考えてみます。
(2) 承認欲求という不純な動機
承認欲求とは、人から認められたいという欲求です。マズローの5段階欲求説では、3段階目の社会的(帰属)欲求の次にくる4段階目の尊厳欲求に分類されます。
人から認められたいという思い自体、もちろん悪いものではありませんが、世の中をよくするための行動の動機とするには十分注意する必要があります。
承認欲求は1段階目の生存欲求や2段階目の安全欲求と比較すると高次の欲求とされていますが、一方でそれらと同じ欠乏欲求です。
つまり、欠けているから欲するのです、自分で自分を承認できないから他人の承認を欲するということです。
「世の中をよくすること」はそのための手段になります。手段として、金持ちになることや昇進すること、美しき着飾ることを選ぶ人もいますが、本質的にはそれらと同列です。
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ちょっと辛辣な見方では、と思う人もいるでしょう。人間そんなにピュアじゃないよと。
たしかにそうです。100%純粋に世の中のためだけを思える人なんてそうそういないでしょう。また、働きかけとしては個人のメリットのみを追求するよりはずっとよいとも言えます。
でも、それだけに見えなくなりやすく、外側への働きかけがうまくいかない影に隠れた原因となるのです。
(3) 思いのバイブレーションが結果を決める
それを説明する上で、重要な原理を述べたいと思います。
それは、「自分が発したものが返ってくる」という原理です。
これは物理法則でもあり、より高次の見えない世界にも通じる原則です。
わかりやすくいうと、行動の元となった思い(のバイブレーション)が結果を決定するということです。
行動を重視する風潮のもと、思いの力は矮小化されていますが、実際は思いがすべてというのが掛け値なく真実のようです。
バイブレーションは正直なので、自分の(承認の)ためという不純物が混じっていると、(見えるかどうは別として)正確にその影響が現れます。
だからこそ、自分の内面に目を向けて、承認欲求がどの程度あるのかをしっかりみた上で、極力その影響度を下げるように留意する必要があるのです。
(4) 自己価値証明という不純な動機その2
世の中をよくしたいという行動の裏にある不純な動機の2つ目は、自己価値の証明です。自分は価値がある存在であると自分を納得させたいということです。
承認欲求のさらに奥深くにある欲求とみることもできます。自分には価値がないと思っていて、その欠乏感を他人の承認で埋め合わせようというわけです。
自分が価値ある存在と思いたい。その欲求自体は、承認欲求以上に悪いものではないでしょう。むしろ、自然なこととすら言えます。
しかも、世の中をよくするという他人にとって利のあることを手段とするのであればなおさらです。
とはいえ、バイブレーションの視点で見るなら、動機に自分のためにという不純物が混入するのが避けられません。
加えて、次のような点で、問題が大きくなる可能性があるのです。
(5)世の中を悪くしたい人も存在する
世の中をよくしたい人がいる一方で、世の中を悪くしたいという人もいます。
そんな人がいるなんて信じられませんか?たしかに私も以前はそうに思っていました。
みんな自分が大事だから、立場が違えば対立したり争うことはある。だけど、誰しも自分の幸せが保証されるなら、周りの幸せや世の中がよくなることを望むに違いないと。
けれど、すべての存在の破壊を望むような人は、少なからず実際にいるのです。しかも、少数で力のない存在ではなく、国家を動かし世界に影響を及ぼすレベルで。
20世紀における世界の紛争の歴史を知っていくにつけ、その思いを深くしました。
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そういう人に対応して、見えない世界においては魔的な勢力が存在するようです。物語などでさんざん描かれているとおりです(汗)。
そういう存在にとって、世の中をよくしたい人は目ざわりなはずですが、通常は接点がありません。バイブレーションが違うので出会えないのです。
しかし、上で見た不純な動機は、両者の接点となり得ます。
自分には価値がないと思っている人にとって、人から賞賛されたり持ち上げられたりすることは、エゴを刺激するとても心地のよい刺激です。
エゴには際限なく肥大化する性質があるので、これを続けるうちに自分は人とは違って優れていて特別なのだという意識が育っていきます。
実際、狙った人間を取り込むため、成功を後押しすることもあるようです。押し上げるだけ押し上げられ、おごり高ぶって自分を失ってしまう人っていますよね。
(6)自分からの逃避
自己価値に話を戻すと、本来、人間の価値は何かをするとかしないとか、何を持っているかどうか、といったことで測れるようなものではありません。
概念的な話をするなら、「すべての人は無限の価値を持っている」のは明らかです。
けれど、それがその人の真実であるかどうかは、その人の経験によります。
自分には価値がないと信じている時、それがその人にとっての真実です。もちろん、どんな信念を抱くのも本人の自由です。
しかし、自分に価値が「ない」という場所から自分には価値が「ある」という場所に移ろうとする時、真摯に自分と向き合う必要があります。
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たとえば、人から同情してもらったり、助けてもらうために、自分には価値がなく、無力な存在であるという立ち位置を取っているとします。
自分のことを評価社会の中で自分は価値がないと判定された犠牲者と捉えていますが、実際は、自分が好き好んで選択しているという面もあるわけです。
このように自分の内面と向き合うことは、ほとんどの場合、バツの悪さや痛みを伴います。信じていることと自分は同化していることが多いので、信じていることを否定することは、自分が否定されるのと同じ痛みを感じるのです。
そこで、苦しくつらい自己対峙を避けようと、外部に活路を見出す、つまり、自分から逃げる場合があります。
自己逃避の先に、外側の他者からの評価や承認を求めた場合、バイブレーションが決して高くないことは容易に想像できます。
必然的に、行動の結果は思わしくないものとなりがちなのです。
2. 自分の内側への働きかけがうまくいく理由
それでは、内側への働きかけの方が、世の中をよくする上でうまくいくのはどういう理由によるのでしょうか。
(1) 思いのバイブレーションが結果を決める(再掲)
1章で、「出したものが返ってくる」、つまり、思いのバイブレーションが結果を決めると書きました。
ですから、行動の元となる思い、それを生み出す自己の内面に働きかけることで、生まれてくる思いのバイブレーションをよくすることが早道です。
現実の創造は、よく映画に例えられます。思いが映写機とフィルム、結果や現実がスクリーンに映された映像です。
ちなみに、行動は思いから必然的に発生する付随的ものという性格から、この例えでは映写機のキャップを外しスイッチを入れるといったところでしょうか。
現実を変えたければ、すなわち、世の中をよくしたければ、キャップの外し方を変えたり映像に働きかけたりしても無意味で、フィルムを変えないと意味がないのです。
(2) 小さな一歩が踏み出しやすい
自分の内側への取組みは、外部に対して働きかけるより、一般的にさまざまな制約を受けにくいと言えます。
すべては自分の内面で起きることなので、物理的な時間や距離、自分以外の他人の都合に影響されにくいと言えます。
取り組む際、そのための時間を取る必要はありますが、家で一人でできるものなので、手軽というか、最小行動単位が小さく、一歩が踏み出しやすいといえます。
そして、ある程度感覚が鋭敏であれば取組みによる何らかの変化を、早期に実感することが可能、つまり、結果が出るのが早いでしょう。
これは案外重要な要素で、結果が出るのが早ければ、継続するのが容易になります。
反対に何の変化も感じられないと、あきらめないで続けるためには、それこそ鉄のような意志が必要になってしまいます。
よほど強い動機がすでに醸成されているのでない限り、そのような意志を期待するのは、現実的ではありません。
(3) どんどん楽になる
先ほど、自己対峙は苦しくつらいと書きましたが、実はそれでは中途半端であり全部を語っていません。
たしかに苦しくつらい面はありますが、その痛みや傷を受け入れて自分と統合したとき、大きな喜びが伴います。
分離の幻想から覚め、愛に目覚めるこの喜びは、どんなお宝を手に入れるよりずっと勝っているように思います。
そして、痛みや苦しさはずっと続きません。進めば進むほど、道は明るくなだらかになっていきます。
内面的成長は言ってみれば「悟り」へと続く道です。悟った人の人生が、生きづらいものであるはずがないのは同意していただけるでしょう。その境地に少しずつ近づくということです。
ということは、これまた内面への取組みが続きやすいという理由となります。
自分が楽になってきた行程を振り返ってみたとき、外に対してがんばって働きかけ続けなければならないイバラの道に誰が戻りたいと思うでしょうか。
(4) 中心に向かって収束する
自分の内側に意識をフォーカスしていくと、自分の内面の深いところ、いわば自分の中心の一点に向かって収束していきます。
この動きは、統合へと向かう動きです。その一点とは、今こここの瞬間であり、自分の中にある本質、すなわち魂です。
外側への働きかけが拡散であり、自分に対して他人を強く意識する、すなわち、分離の動きであるのと対照的です。
今ここにいて、自分の中心である魂とつながり、一なるものに統合されるということは、普遍意識=愛と一つになることです。
本当に創造の源である愛と一体化した状態でことを運ぶなら、うまくいかない方が不思議ではないでしょか。
(5) 内と外は同じもの
ここまで内と外を分けて論じてきておいて何ですが、実は内と外は同じものです。
すべては一つというのが真理であり、分離は意識が生み出した幻想です。
先ほどの例えのフィルムとスクリーンの映像は同じものですよね。
そして、フィルムが実体であり、映像は幻影です。
繰り返しになりますが、幻影ではなく、実体の方に働きかけるのは、極めて合理的な行動であるというのがわかったでしょうか。
3. 自分の内側から始める考え方の注意点
以上見てきたように、本質的な視点からみると、世の中をよくするためにはまず自分の内側に働きかけるのがベターであると私は考えます。
ただし、物事にメリットとデメリットが必ず存在する以上、この考え方を選ぶことで生じるデメリットがいくつか存在します。
あらかじめそれを知っておくことで、回避したり影響を小さくすることができます。
(1) 絶対に正しいなんて考えないこと
まず確かなのは、いかなる場合でも正しい考え方など存在しないということです。
現実世界で自分の身に起きる出来事と選択によって、今生で生きるべき人生に導かれる人もいます。
想像を絶する厳しい状況にあっても、あきらめずに強い意志をもって人生を切り開き、多くの人に希望を与えた人たちがいます。
生命さえ脅かされる過酷な現実に向き合い続けることで、大きな精神的飛躍を遂げることもまた可能であるのが人間なのです。
(2) 外への働きかけから逃げる理由にしないこと
一方で、恐れや不安に脅かされる弱い面を併せて持っているのも人間です。
私も含めた多くの人がそうですし、上記のような偉大な人も自分の弱さと戦っているのです。
外側に向かって自分の信念を発表したり、行動に表したりすることは勇気が必要です。
逃げるなとは言っていません。自分の内的成長が十分でないとき、できないことはできないでいいのです。
しかし、心の内側に取り組んで自分が内的に成長したなら、その状態に見合った行動はなされるべきです。
なぜなら、あり方と行動は本来一つであり、行動が伴わないことはあり方がまだあるレベルに至っていないことを意味します。
私が言いたいのは、内面的取組みをまず行うことを、行動しないことの言い訳にしないでくださいということです。
特に、日本人の場合、同調圧力に流されること、忖度の習慣には注意が必要です。自戒を込めて。
(3) 内対外の対立図式にしないこと
内面的取組みか、外的働きかけか、どちらが正しいなどという論争も無意味です。
冒頭述べたように、人が置かれている状況、体験する現実はそれぞれなのですから。
自分の方が正しい、相手は間違っていると思った瞬間、自分と相手は分離し、相容れなくなります。
それでは世界を悪くしようとしている人の思うツボです。戦い、争うことで、相手を否定するバイブレーションに落ちた時点で、論争の行方にかかわらず彼らの勝利という結果は明白です。
自分が正しい、だから、相手は間違っているというのは、単純な思考のなせるわざです。
自分も正しい、そして、相手も正しい、それが成立するのがこの世界です。
(4) 真理に則っていたとしても自己価値証明の根拠としないこと
内的成長を志向し、悟りの道を歩いているから自分は価値があると思ったとしたら、本末転倒もいいところです。
曰く、スピリチュアル・エゴというそうです。これもまさしく自己価値証明の罠と言えます。
先ほどは、外側に働きかける場面での自己価値証明について述べましたが、自分の内面に働きかける道を選んでも、同じ罠が待ち受けているのです。
人のエゴの悲しさとでも言おうか、どんな場面、状況であっても、自分の価値を見出そうとします。
これはどんなに心の修行が進んだとしてもなかなか完全には抑えられるものではありません。
自分は高い境地まで至った(だから、価値がある)と思ったとしたら、すでに転落が始まっています。
魔的な存在はその足元をさらうべく、自分の近くまで落ちてくるのを虎視眈々と狙っているのです。
4. まとめ
災害が多発し、少子高齢化が進み、先の希望が持ちにくくなっている現在の日本。
国を元気にし、みんなが明るい未来に希望を持ち、笑って暮らせる世の中を作りたいという思いを多くの人が持っています。
そのためには、一人でも多くの人が、自己の内面に意識を向けて内的成長に取組むことです。
それによって、集合意識の改善を通じて、世の中をよくすることに貢献することができます。
具体的な内面的成長のやり方については、引き続き発信を続ける考えでいますので、共感してくれる人に加わってもらえると力になります。
以上
(関連)次の記事では、自然災害に対して内面的にどう向き合い精神的成長に生かすかまでをまとめています