令和は元号としては歴史上初めて国書に由来するそうです。
これも日本国の大元に回帰する流れの一環であると感じます。
令和の悟りを目指すためには、日本古来の精神成長の考え方がどのようなものであったかを知る必要があります。
1.日本の精神的主柱は古神道
日本の精神成長の土台、それは、仏教ではなく、もちろん儒教でもなく、古神道です。
古神道とは、仏教その他の外国の宗教が伝来する前の古来の神道のことです。
自然のなかに神を見て自然から学び、自然と共生していく生き方です。
古神道では、人は神の分御霊(わけみたま)、すなわち、神の子であり、その本性を善とします(性善説)。
なので生きていくなかで穢れを受けても、禊払いにより本来の姿である神に還ることができるのです。
また、笑いや明るさ、いつわりなく真っ直ぐであることを大切にします(清明正直)。
日本建国の理念とは、このような世界観の下で、人が楽しく暮らしつつ、神に近づくための場を作ることでした。
古神道は言挙げせずというとおり教義はありませんが、人の生きる意味とは、笑顔で楽しく幸せに暮らし、魂を磨いて神に近づくことと捉えていたようです。
以下に見るように、生活すべてが人間としての成長という目的に適うものだったのです。
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自然環境・・共生する自然に神を感じ、恵みに感謝し、厳しさに謙虚になった
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日本語・・使っているだけで自然に神の存在を意識し、つながれた
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年中行事・・先祖や神に意識を向け、努力を誓い、感謝の祈りを捧げた
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食生活・・菜食中心、粗食(一汁一菜)で霊性を高めた
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身体操作・・源のエネルギーを取入れる姿勢、呼吸、歩き方により、疲れ知らずで勉学、労働に励んだ
2.令和と縄文の違い
このように、かつての日本は、いわば悟りの道場として理想的でした。
といって、縄文から伝わる古来のやり方にただ回帰すればいいのでしょうか。
残念ながら、そうはいきません。
以下にみるように、令和の現代と縄文では様々な点で違っているので、古代と同じやり方はむずかしいのです。
(1)失われた自然
その最も大きな要因は、自然が失われたことでしょう。
特に明治以降、新政府の思惑で徳川時代を否定し、なんでも西洋化、近代化、経済の発展を優先した結果です。
幕末に日本を訪れた西洋人が、絵のように美しいと感嘆した文明と自然の見事な調和は完全に失われてしまいました。
都市では雑駁で不調和な建物、地方ではどこも同じようなチェーン店が目立つ趣がなく詰まらない景色ばかりです。
都会生活では、自然の中に神気を感じて魂を磨く機会は、山や海など自然を求めて遠出しないかぎり得られなくなりました。
(2)食生活
また、食生活も変わりました。
江戸期までの日本は菜食中心、一汁一菜の粗食で、霊性を高めるのにとても役に立っていました。
海外でも、神・自然・真理に関わる偉大な業績を成し遂げた人はその有効性に気付いていたようです。
例を挙げると、古くはピタゴラス、プラトン、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ダーウィン、ニュートン、シェイクスピア、ルソー、ソロー、エマーソン、ガンジー、トルストイ、、、
これらの人は、人生の探究を進めるうちに菜食主義になっていったのだと思いますが、かつての日本は、国をあげてそうだったということです。
しかし、明治以降、物質的豊かさによって平均寿命が伸びた一方、肉食が増え、飽食、過食、美食がはびこり、命をいただくという食事の本来の意義が忘れ去られました。
最近、食べ放題のペナルティを逃れるために食べ切れない料理をトイレに流したというニュースがありましたが、日本人の意識も地に落ちたものです。
(3)言挙げしない文化
さらに、言挙げしないという古神道の作法も、今の時代ではなかなかうまく機能しません。
森下典子さんの「日日是好日」というお茶(茶道)をテーマとしたエッセイがあります。
2018年には映画化もされ、樹木希林さんが亡くなる少し前に出演されたことで話題になりました。
私はこの本を読んで、茶道のなかにまさに言挙げしない文化が受け継がれていると感じました。
所作の意味、掛け軸や飾り物、御茶菓子、一つ一つに意味がありながら、師は何も言葉では説明しません。
大学生の頃いとこに誘われてなんとなくお茶を始めた森下さんは、訳もわからないまま「形」をなぞりながら、毎週教室に通い続けます。
そして、さまざまな人生経験を経て、10年、15年が過ぎたころ、ふとしたきっかけでずっとそこに存在していた茶道が伝えている「心」に気づくというお話です。(すごく大雑把な説明でスミマセン)
自分で気づくからこその大きな心の成長であり感動でもあるのですが、この慌ただしい現代において、それだけ長い時間ただやり続けるのはむずかしいでしょう。
森下さんも昭和31年のお生まれですから、まだその頃は今から比べればのんびりしていたと思います。
習い事だけでなく、職人の修行、武道なども同じです。
かわり映えのしない日常のゆったりとした時間の流れのなかでこそ、経験できることもあると思います。
そういえば、最近、「石の上にも三年」という言葉を全く聞かなくなりました。
今だと、3ヶ月(もしかすると1ヶ月?)やって結果が出なければ、すぐに次の手を打てと言われるでしょう。
(4)セルフイメージ
敗戦後、米国の対日占領政策であったWGIP(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)の成功も日本人の意識の劣化に貢献しました。
国の成り立ち、神話、歴史を教えず、自分の祖先たちがどれほど素晴らしい国を築いてきたか教えないようにしたのです。
戦争では、日本がどれだけ残虐なことをしたかを強調します。
一方、西洋文明がどれほど非道なことを日本だけでなくアジアの国々に対して行ったかも教えない。
そのために、報道機関への検閲はもちろん、膨大な数の文献がアメリカの手により焚書されたのです。
要は、罪悪感を植え付け、日本人の誇りを根こそぎ奪い去っていったということです。
自分を否定しては、精神成長どころではありませんよね。
本当に悔しいことですが、知ったうえで何もしないのは、さらに残念なことではないでしょうか。
(5)トラウマ
残る一つは、現代の産科医療による出産で、出生時および幼少期のトラウマ(心の傷)が大きい人が増えたことが挙げられます。
かつてお産は母子ともに命がけであり、亡くなる人が減ったのは現代医療の輝かしい功績です。
しかし、それと引き換えにトラウマが増大することになりました。
トラウマが多いと様々な悪影響があるのですが、一番の大元は自分自身が大切で価値ある存在と思えなくなりやすいのです。
すると、他者からの承認を求めてしまい、そういう人が多いので、かぎりあるエネルギーを奪い合って争ってしまいます。
これは国の指導者レベルから家庭まで、人間の紛争の根本の原因です。
つまり、古代に比べて現代は、総じて言うと人間の程度が大きく劣化しているということです。
そのなかでも、日本人はずっと魂のレベルが他の国より高かったようですが、先の戦争前後には落っこちて並んでしまったようです。
このように、悟りを目指す上で諸条件が悪化しています。
過去にそうであったようにただ生きているだけでは、霊的向上を果たすことはむずかしいでしょう。
令和時代の悟りは、これを踏まえて工夫を凝らす必要があるのです。
もちろん簡単ではないでしょう。
でも、自分の幸せをあきらめられるでしょうか。
それ以上に、魂磨きの道場である日本という国を残してくれた先人に申し訳が立ちません。
だから、あきらめずにやることはやるというのが私の思いです。
3.まとめ
日本の精神成長の主柱は古神道でした。
そして、昔の日本は生きているだけで、精神的成長が遂げられる条件が整っていましたした。
しかし、明治以降、特に戦後は外国の意図的な破壊も手伝って、その条件が大きく損なわれました。
「令和の悟り」の道を再構築するには、そうした悪条件を跳ね返していく必要があるのです。
やさしい道ではないかもしれませんが、決して幸せと魂の成長をあきらめてはいけないと思うのです。
以上