前の記事「今生きる意味がわからない人も必ず生きる意味が見つかる」の続きです。
置かれている環境はさまざまであっても、生きる意味が見出せず、惰性的に生きている状態。。
それは人生のピンチであると同時に、新たな可能性の扉を開くチャンスでもあることをお伝えしました。
この記事では、本当の生きる意味を見つけるためにはどうすればいいのかを書いています。
1.本当の生きる意味を見つけるために大切なのは段階を踏むこと
「本当の」と書きましたが、なんでもいいんです。
今が充実していれば。今が幸せならば。(刹那的な意味ではなくね)
けれど、人の心、魂には成長しているプロセス、段階のようなものがあると思っています。
そのプロセス、段階に沿うように生きていった方が、スムーズだしラクに楽しく生きられるといえます。
生きる意味を追求していくための二つの段階について書いてみます。
2.生きる意味なんてないと開き直って楽しむ段階
(1)生きる意味がない理由
前回取り上げた投稿でも、多くの人が生きる意味がわからないまま何となく生きている、そんな状況が浮かび上がってきました。
では、その状況のもとでどう生きるかという問いかけに対して、ネット上ではそもそも生きる意味なんてないと断定する意見が目立ちました。
その根拠は以下の2つに集約されるようです。
- 人生にはゴールがない
- 生物の本能で生まれた
人生にはゴールがないというのはこういうことです。
みんな、なにがしかの目標を持って生きている。受験とか、結婚とか、職業とか、住宅とか、収入とか。
けれど、それを達成しても次の目標、また達成しても次の目標と、生きている限り走り続けないといけない。
だから、人生は目標はあっても、意味、すなわち、目的となり得るゴールはないということなんでしょう。
次に、生物の本能。
いうまでもなく、種の繁栄のために行動するという本能を指します。個体として生き延び、子孫を残す。摂食と生殖です。
遠い過去からの命の営みの結果、ここに自分が存在するといった感じです。
それについて、特に意味を見出すことはなく、広大な宇宙の片隅にたまたま生まれてしまった、というニュアンスを強く感じました。
(2)枠から外れることで自由になれる
とはいえ、生きる意味がないことに絶望するのではありません。
むしろ、意味がないことを受け容れてポジティブに考えようという発想の転換があります。
いわば、生きる意味がないから死のう、ではなく、生きる意味がないんだから何してもいい、だったら楽しく生きようということです。
まさに一種の開き直りですね。
前回、現代社会で生きる意味を求めて悩む人は、つらい環境にいることが多いようだと書きました。
こうでなければならないとか、こうでないと自分には価値がないと感じ、自分で自分を縛って苦しくなっている人も少なくないように感じます。
だから、開き直りを使って枠を外し、自由に楽しく生きる方へと移行しようというわけです。
(3)楽しく生きるヒント
以下はネットを検索して見つけた、生きる意味がなくても楽しく生きるヒントです。
- 自分の気持ちを紙に書き出す
- 小さな生きがいを見つける
- 人のために生きる
- 短所の改善に目を向ける
- 睡眠をしっかりとる
- 明るい人と過ごす
- 口癖を変える
エッセンスとしては、自分の気持ちに気付いてあげたり、小さくとも自分が役に立つことを見つけたり、身体を労ったり、付き合う人や普段考えることを前向きにすることなどでしょうか。
たしかに、ちょっとしたことで気持ちが楽になったり、前向きに考えられたり、楽しい気持ちになったり、ということはあると思います。
もともとつらい状況であったわけですから、簡単に解決とはいかないかもしれません。
しかし、ちょっとした気持ちの持ち方を変える努力を積み重ねることで、徐々にではああるかもしれませんが、自分の状態とをよくしていくことができます。
そうすると、少しずつ起きてくることも変わってくるので、よりよい循環に入ることが望めると思います。
3.生きる意味を見失った現代人の不幸
とはいえ、気になったのが、生きる意味はないとする考え方のなかに、どうにも浅薄で刹那的な性質が見え隠れすることです。
(1)浅薄な偽物で知った気になることの害
たとえば、美味しいものを食べる、自由な時間を過ごす、ゲーム機、セックス、などは比較的簡単に手に入る楽しみや心地よさかもしれません。
けれど、感覚的刺激や神経の興奮などによる快楽は一種のヴァーチャル・リアリティです。現実を幻とみる考え方は昔からあるとおりです。
深いレベルで満たされることはなく、また新しい刺激を求めて、快楽の奴隷のようになってしまいかねません。
料理を例にとると、化学調味料に人間の舌や脳は反応して(騙されて)、同じような味だという感覚を感じます。
ですが、本物のよい素材を使った料理は、味覚だけでなくもっと深いところに響いて、食す人の心を豊かに満たしていきます。
つまり、後者を追求するのであれば次の段階に進めるけれど、前者を追い求めているだけでは、堂々巡りの中で現実から目を背けるぐらいの効果しかないということです。
(2)本物の生きる意味が見出せない人の未来は暗い
未来への希望がないという点では、死ぬのが怖いから生きているといった考え方も同じです。
前回の記事でトルストイの考え方を紹介しましたが、それと同様に、自殺したら勇気があって、自殺できない自分は臆病者ということになってしまいます。
ちなみに、私は自殺(自死)という解決方法には全く賛同できません。
死後の世界はあると思いますし、今生で自ら命を絶った場合、長きにわたって苦しみ続けることになるようです。
生きているのはせいぜい数十年、実際のところ、今は苦しくとも数年もすれば苦しみから脱していることの方が多いでしょう。
でも、死後の世界は寿命がないので、数百年という単位で苦しむことも珍しくないようです。
そもそも死んだら終わりということは、絶対に証明できません。ないものは証明できないのです。
自ら死を選んでしまって、もし死後の世界があって、後悔してもあとの祭りなのです。
だから、死ぬぐらいなら死んだ気になって生きてみるのがオススメです。
死んだ気になって、長くても数年、目いっぱい生きたら、ほとんどのことは打開できると思います。(実際にはもっと短い期間でなんとかなると思います)
仮に、もしうまくいかなかったとして、どんなに最悪でも死んでしまうだけです。今自殺するのと、結果において変わりはありません。
数年苦しみが長引くのはデメリットですが、やることをやって死んだのなら、死後の世界があった場合、必ず光の世界に戻っていけるはずです。
自殺は割の合わない解決法なので、選ばなかったからといって、決して臆病者なんかではありません。
むしろ、目いっぱい生きることを選択したのなら、誇りを持っていいと思います。
だから、惰性で生きる人の未来は暗く、本気で生きる人の未来は明るいと思います。
(3)生きる意味は自分で決める
生きる意味がわからないまま、目先の楽しみに生きても、自ら死を選べない臆病者として生きても、結局、人生は苦しいままであり、根本的な解決になりません。
結局のところ、他人に答えはもらえないので、生きる意味は自分で見つけるしかないのです。
けれど、つらい状況で惰性的に生きている「自分」がそれを見つけることはむずかしいのも事実です。
だから、まずは楽しく生きることに目を向けて少しずつ現実を変えていき、自分の状態を高めましょうということなのです。
自分の生きる意味、その答えは自分の中に必ずあります。
ただ、それが見えないことがあるだけなのです。
まずは、その答えとつながれる自分になる必要があるのです。
4.自分だけの生きる意味を取り戻す段階
(1)生きる意味を見失った原因
そのためにどうするかについては、私たち日本人の祖先が、遥か昔から受け継いできた生き方がヒントになります。
日本人の生き方の根本、それは生命を生み出し、育んでくれる自然への感謝と畏敬心です。
さらに、自然の背後にある真理、聖なる存在への信仰でもありました。
それは人間を作り出した完璧で超越した神というより、親のような存在です。
昔から神道では、人は神の分け御霊と考えられてきました。
神はあたかも親のような存在であり、他の生命も、神から分たれたという点で兄弟のような存在でした。
自分を生かしてくれる自然を具現化した存在として、国、村などの共同体、すなわち、公(おおやけ)があり、その内側に家族、両親がありました。
人はそれらのうちに抱かれて安心して生きていたので、自ずから自分の生命に価値を感じ、生きる意味を感じ取ることができたのです。
今は、それらのものが根こそぎ失われつつあります。
自然は征服され人間の便利のため、好き勝手に利用される存在になりました。
それとともに、快適な生活の中で自然の息吹を身近に感じる機会も失われました。
公は私と対立し、自由を制限する存在になりました。
家族も親子以外の世代間のつながり、親戚づきあいは希薄になりました。
そして、昨今の虐待問題に見られるように、親子のつながりさえ持てない人が増えています。
自分を慈しんで育んでくれる存在を感じることができないことで、人は生きる意味を失ってしまったのかもしれません。
(2)日本に受け継がれた生きる意味を実感する生き方
それでも、私たちは生きています。
自分を慈しんで育んでくれる存在を身近に感じられなかったとしても、その存在は決してなくなったわけではありません。
私たちが生きているのがその証拠です。
私たちは、自分を高めることで、自然のさらに奥にある、見えない理、大いなる存在の働きを感じることができます。
それらは目にも見えず、頭で理解することはできません。
ですので、感覚や感性を高めることが大切です。
頭だけでは完結しないので、体験を通じて知ることが重要です。
日本には昔から、言挙げしない(あえて言葉に表わさない)という伝統があります。
見えない世界こそ本物であり、大切なことは言葉で説明できるものではないからです。
茶道では、すべての動作、掛け軸、道具等に意味があるといいますが、師匠はそれを言葉で説明しません。
弟子はただひたすら形を守ることで、目に見えるものの背後にある心に自分で気づいていくのです。
感覚や感性を高めるとは、自分の中にある余計なものを取り除き、心の傷を癒すことでもあります。
自分自身を嫌っていること、自分が間違っていることなど、見たくないものがあると、目を塞ぎ、心に蓋をしてしまうからです。
すべてをありのままを見ることは、たいへんしんどい面もありますが、真理を悟ることを目指す生き方です。
悟りと聞いて、ゴールは遠いと感じるかもしれません。
でも、安心してください。
その道は、親の愛に一歩ずつ近づいていくように、だんだん暖かな光が強まっていくようなものだからです。
自分と他人への思いやりがなく、観念的で苦しいだけの修行とは全く異なるものです。
また、反対に怠惰や自分を卑下すること、けじめをつけることなく馴れ合うことも、目指すところから遠ざかることになります。
心の穢れ、すなわち、気枯れを払うとは、余計なものを取り去り、潔め、すなわち、気を良めること。
そして、元気、すなわち、天地の間にあって、万物生成の根本となる精気を取り戻す生き方です。
一歩進むごとに、解放され本当の自由へと近づいていくなら、その道中である生きることそのものが楽しく喜びに満ちたものになるのではないでしょうか。
5.まとめ
生きる意味を見失った状態から、自分を生かしているものとつながり、生きる意味を自分で見出せるようになるまでを段階に分けて説明しました。
いかがだったでしょうか。
考えてみれば生きる意味とは面白いもので、生きる意味がある人生において、人は生きる意味などわざわざ問わないのかもしれません。
それは遊ぶこと、楽しむこと、喜ぶことであっても全然かまわないのですが、そのためには真剣に生きることが欠かせません。
余計なものを取り去り、本来の自分に還る生き方が広がればいいなと思います。
以上
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