悟りの窓

魂とつながる日本固有の自己成長の道

無気力・無関心と悟りはどう違うのか?

約7分

本来の意味とは違うが、あきらめて、意欲を失っているような状態を「あの人、もはや悟っているよねぇ」などと言います。

そのせいかどうかは知りませんが、悟りと無関心や無気力がどう違うのかという疑問を持つ人がいるようです。今回はその疑問への答えをまとめます。

結論から言うと、悟りを目指すなかで、無気力・無関心に陥る可能性はなきにしもあらずです。

ただ、必ずそうなると言うわけではなく、無気力・無関心のトラップにはまらずに悟りの道を行くことは可能です。

悟りの道は欲を捨てるのみとは限らず、心安らかに豊かで幸せな人生を送ることにつながるものです。

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1.無気力・無感心が悟りと混同されやすい理由

悟りが無気力や無関心と混同されやすいことには理由があります。どう違うのかを考える上で、似ている点を認識することは有力な手がかりになります。

(1)無関心

悟るためには、執着しないことが必要と言われています。執着とは、物事に固執し、捉われることです。

執着を手放す過程で、物事に対する興味や関心を失って、無関心になると考えられたのでしょう。

しかし、執着を手放すとは、「どうしてもこうなってほしい」や「ああでなくてはならない」という強い思い込みを手放すことです。

「こうであったらうれしい、けど、べつにそうならなくてもいいけどね」は執着していません。

悟りがシンプルに意味するところは、知ること、気がつくこと、です。ですから、悟るとは、自分やすべての物事をありのままに分かる、ということになります。

ありのままに分かるためには、果たして対象に無関心でそれが可能でしょうか。

一方、物事がありのままに分かると、物事のプラス面とマイナス面もよく見えるようになります。

執着するのは、あることがそうでないことよりも、「絶対にいい」と思っているためです。でも、それは悟っていないが故の思い込みです。すべての物事はニュートラルですから。

悟りに近づくとは、対象にしっかり向き合い、ありのままに受け止めて、分かるようになることです。

そうすると、いい面も悪い面も両方が見えるので、無関心じゃないけど、執着しない状態になるというわけです。

(2)無気力

無気力とは、意欲のないこと、進んで何かをしようとする意欲のないことです。

ここでも、悟りにおける執着しないことや欲望を捨てることが、悟ると無気力になるという発想につながっているようです。

たしかに、仏教では俗世間の欲を捨てる出家という方法を勧めています。さらに悟りたいという欲も悟りの妨げになるので、捨てなければならないとされています。

欲を捨てて読経三昧、瞑想三昧、しかも、大元の動機である悟りの欲求まで捨ててしまっては、無気力になってしまうと考える人がいても止むを得ないかもしれません。

しかし、ここにも誤解があります。

悟りのために捨てるのは、あくまでもエゴ(小我)の欲です。悟りたいという欲も、同じくエゴの欲です。

そうしてエゴの欲を捨て去ったあとに、魂(真我)の欲求(欲という言葉が不適切なら、魂の目的と言ってもいいかもしれません)をすくい上げるのが悟りです。

魂の目的とは、生まれてきた目的、人生の意味ということでもあります。悟りにより、生まれてきた目的をしっかりと捉えた人が無気力であるはずがありません。

ただ、エゴの欲を捨てるのは口で言うほど簡単ではありません。エゴには生存本能のような欲求も含まれるので、生きる力を殺ぎ落とす方向に力をかけているのは間違いありません。

そのぎりぎりのせめぎ合いが修行による悟りの道ということになります。これについてはあとで触れます。

(3)不動心

ついでと言ってはなんですが、無気力・無関心と並んで、悟りに関連して誤解されやすい不動心についても触れておきましょう。

不動心とは、文字どおり動じない心です。悟りが進めば、不動心が根付いてくるのですが、ここにも誤解が存在します。

一つが、悟りとは、感情を切り離すという考え方があるようです。感情は生きるエネルギーであり、魂からのメッセージでもあります。

魂が喜ぶことはポジティブな感情が、魂に反することはネガティブな感情が生まれるという具合に。

その大切な感情を切り離しては、生の最高の形である悟りなど決して望むことはできないでしょう。

また、不動心は、感情を抑え込んだり、感じないことにするのとも違います。現代社会では、特に男性に多く見られますが、これは単なる感性の鈍磨です。

感情が滞ると、ちょっとしたきっかけで爆発したり、ひどくなると心身の不調となって現れます。それこそ、悟りどころではありません。

感情に振り回される人はジェットコースターに乗っているようなものです。ワーワーキャーキャー言っているだけで、その時に楽しい以上の意味はありません。

悟りに近づくにつれ、感情はさらさらと滞らず、精妙なものへと変化します。常に穏やかな喜びを感じている状態です。

このため、何か感情が揺れるようなことがあっても、大きくは揺れず、すぐに流れていき元に戻るので、あたかも不動であるように見えるということです。

2.無気力こそ悟りの前兆という考え方

一方で、無気力こそ悟りの前兆であり、実はポジティブなものと捉える考え方が存在するので、別に採り上げてみます。

先ほどみたように、一般的な欲とはエゴの欲でした。

悟りをエゴの死と捉えるので、エゴが弱っていって無気力になっていくことは、むしろ歓迎すべきことです。

エゴは、自分が主人のような顔で振舞っていますが、実は無力で幻影のような存在です。

エゴはそれを見破られまいと、さまざまな思考を使って、わたしたちを思考の檻に閉じ込めようとします。

たとえば、「がんばらないとうまくいかない」「しっかり考えて行動しないと大変なことが起きるよ」などなど。

そうした思考の罠をかいくぐり、エゴが降参しそうになっている前兆が、無気力というわけです。

たしかに一つの考え方ではあります。しかし、小我は単に邪魔なだけの存在なのでしょうか。実は、小我にも役割があります。

自分の内と外から情報を集め、選択して意思決定する役割です。

考えてもみてください。悟ったからといって、すべての選択が自動的になされるわけではありません。

食事ひとつとっても、何を食べるか自分で決めないとならないのです。

それは悟っても小我の役割なのです。

だったら、小我は何も死ななくてもいいのではないでしょうか。

主人のように我が物顔に振舞われるから、魂の出番がなくなって迷惑なだけです。

だとすれば、この考え方においても、わざわざ小我が無気力になって生きる意欲さえ失うような状態に陥る必要もないことになります。

3.トラップに囚われないで悟りを目指すルート

上で見たような誤解にはまったり、わざわざ苦しい道を通らなくても、悟りを目指すルートが存在します。

悟りが執着を離れることであるのは、最初に見たとおりです。この色々なものを手放す過程で、恐れが生まれます。

無理に欲を捨てるとこの恐れを見ないことになります。そうではなく、この恐れにきちんと向き合うのです。

そうすることで、欲に振り回されなくなります。振り回されなくなると、欲を満たすことが可能になります。

欲に振り回されているとそれができません。際限なく求めてしまうから、底なしになってしまうのです。

エゴの欲が満たされると、自分が本当に願っているものに意識が向きます。すると、その方向に進んでいくのです。

具体的には、自分の中の思い込みを解消したり、感情の滞りをなくしたり、潜在意識にある心の傷を癒したりといったことです。

これらをあたかも山登りのように淡々と地味に積み上げます。

別の言い方をすると、悟るためのベースとなるのは地に足を着けた生き方をするということです。

悟りは、覚醒体験のようなものがすべてではありません。どちらかというと、それが枝葉で、実は、地味に着実に心の成長の階段を上がることなのです。

4.まとめ

悟りと無気力、無関心との関係、よくある誤解、悟りに至るいくつかのルートについて、見てきました。

これらの道のどれをとっても実はいい悪いはありません。

目指してさえいればやがてたどり着くと言うのも真実です。

ただ、自分がどうしたいのか、どこまで行きたいかによって、自ずとふさわしいルートが見つかるのではないでしょうか。

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この記事を書いた人

祇場 駿矢(しば しゅんや)
幼い頃から「人は何のために生きるのか」「人はどこからきてどこへ行くのか」「ここは自分がいる場所ではない」などと考える子供だった。

ところが、昭和の成功の常識に染まり、京大法学部からメガバンクに。バブル崩壊からITバブル、リーマンショックなど日本経済の栄枯盛衰を経験。

忙しい毎日を送りつつも、目に見えるモノ(物質、金銭、地位、肩書き)では、決して心が満たされることはないことに気づく。

世間的なうたかたの価値に見切りをつけ、人間が生きることの本質的価値を探究して2014年に銀行を退職、起業する。

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