悟りの窓

魂とつながる日本固有の自己成長の道

期待しないで感謝して生きる5つの方法と悟りの視点

約19分
期待しないで感謝して生きる5つの方法と悟りの視点

この5月、修行色の濃い山行に行ったのですが、山から戻って、ちょっとしたことに感謝できる自分に気づきました。

しばらく内観していると、期待の本質、期待と感謝の関係が明確に腑に落ちました。

「期待しないこと」はよりよく生きるための有力な手法と感じましたので、「期待しない・感謝する生き方」についてまとめました。

また、このサイトのテーマである「悟り」という視点から、期待や感謝をどうみるかについてもお伝えします。

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1.山での修行で感謝が溢れた体験

今月、修験道の根本道場と言われる大峯奥駈道を3日間歩きました(5日間の予定だったが、天候悪化と足の状態に鑑み3日目に下山)。

アップダウンが続く急登あり岩場ありの険しい山道を、慣れない地下足袋で足の裏のマメ、指先の内出血に耐えつつ、1日目9時間、2日目15時間、3日目は雨の中を3時間半歩き続けるという、なかなかハードな体験でした。

(山行の体験記は末尾にリンクを貼っておきますので、よかったらお読みください)

けれど、痛みやつらさに耐えて豊かな自然の中を歩き続けるうちに、自分の内側で変化するものを感じました。

自ずと頭が下がり、すべてのものに感謝できる、そんな心境です。

自分を卑下するわけでもなく、それでいて自分はなんてちっぽけなんだろうと明るく認められるような。

こういうのを本当の意味での謙虚というのかもしれないと思いました。自分で言うのもちょっと変な感じですが。

割りと世の中一般に思われている「謙虚」は自分を必要以上に引き下げている点で、案外傲慢寄りなのではないかと思います。

山の中では本当に「当たり前」なんてないということに気づかされます。

まず、慣れない地下足袋で山を歩いて足にマメができてみると、普段何の気なしに履いている靴がいかに足をしっかり守ってくれているかを感じます。

足の置き方や体重のかけ方についてそれほど神経を使わなくても足が痛くならないのは、靴がクッションやガードとなって足を守っていてくれるおかげです。

また、しんどいながらも気持ちよく歩けている登山道も、整備してくれている方がいらっしゃればこそです。

今回歩いた道は、明治以降荒廃して通行不可能だった場所を、数十年前にたった一人の志から始まった支援者の方達のボランティアで整備、維持され続けてきたものです。

一旦山に返った道の開通は容易ではなく、何年かかけて樹々との根比べが続いたようです。

道の傍の木に掛かっているプレートから、その刈峰行はすでに71回を数えているようでした。

歩くのですら大変なのに、石を動かし丸太を埋めて歩きやすくし、気にテープで目印をつけていくのは、並大抵の苦労ではないでしょう。

たいへんで根気を必要とする作業、まさに行ですね。

その方達は山小屋の管理も行ってくださっていて、2日目に宿泊したどり着いた宿(しゅく)がそうでした。

山小屋から谷あいの水場までは数百メートル離れており、本来はこの距離を往復し、自分で水を運ばなければなりません。

山小屋にたどり着いたのは、その日15時間近く歩いて、日も暮れて、雨も降り出した頃でした。

足は痛み、数メートル歩くのも億劫な状態でしたので、小屋に水の汲みおきがあるのを知った時、どれだけありがたかったことでしょう。

そのほかにも山の中では、普段の生活で当たり前なことができません。

何日もお風呂にも入れないなんて普通です。トイレも清潔な水洗式なんて望めません。

ひねれば飲める水が出る蛇口もありませんし、パチンとやれば明るく光る電灯もありません。

このように、山では当たり前が何一つないので、期待する気持ちが起きません。

念のために確認しておくと、当たり前と期待は、当たり前だと思うからこそ、そうあってほしいという気持ち、つまり、期待が生まれるという関係にあります。

 

でも、ここまで考えて、普段の生活だって、決して当たり前なんかじゃないよなと思えました。

水道だって電気だって、舗装された道路だって、名前も知らない誰かがやってくれるからこそ、利用できるのです。

お金を払ってるから当たり前、なんていうのもナンセンスです。

東日本にお住いの方は、7年前の大震災で痛感したかもしれません。

山の中や災害時において極限状況に置かれることを考えれば、紙や金属のお金がなんの役に立つでしょうか。

安全で平穏な社会だって、みんなでそれを維持しているからこそ、保たれているのです。

2.なぜ当たり前という心が起きるのか

では、どうして私たちは、本当は感謝できるものに対して、普段の生活でついつい当たり前と思ってしまうんでしょうか。

その理由を見ていきましょう。

(1)脳のはたらき

一つ目は脳のはたらきです。脳はエネルギーや酸素を大量に消費する器官なので、自然の知恵で省エネルギー機構が備わっています。

なんども経験するものを、いちいち新たに認知し、その都度評価しているとたいへん効率がよくありません。

そこで、効率化のため、「これはこういうもの」としてパターン化し、ショートカットで処理できるようにする働きがあるのです。

このため、最初は「すごい」「便利!」「ありがたい」と思ったものでも、慣れるにしたがって、たとえば電気とはそういうもの、つまり、「そのようにあって当然」と感じるようになるのです。

(2)エゴのはたらき

もう一つの理由はエゴのはたらきです。

エゴの本質的機能は、自分の肉体を守ることですが、もっともっとと際限なく求めてしまうところがあります。

不安ベースで生きている人にとっては、どこまでいっても何をしても、結局安心できないので、キリがないのです。

具体的には、お金がいくらあっても、今は健康でも、将来絶対安泰という保証はないといったことです。

だから、すでに得たものは「あって当然」のものとして関心がなくなり、新たに自分を安全で快適にしてくれるものを探し求め、それを得ようとするのです。

(3)習慣化や集合意識の影響

誰しも生きているなかで何かうまくいった経験をお持ちだと思います。

たとえば、学校のテストでよい点を取ったとか、ビジネスで大きな契約を取ったとか。

でも、いつまでの喜びに浸っていることを許されたでしょうか。

そうではなかったはずです。

勉強であれば、親や先生は、95点で惜しかったから次は満点を目指しなさいとか、満点を取ったら取ったで、算数はよいとして、苦手な英語をなんとかしないとなどと言ったと思います。

仕事に至ってはもっとそうですね。今月は大きな契約が取れても、来月ゼロなら、今期目標を達成しても次の期に未達なら、上司から叱責されるのは覚悟しなければならないでしょう。

そうやってどんどん先を目指すことで人類の進歩を促したので、もちろん一概に悪いことではありません。

でも、習慣化や集合意識の影響として、できたことの喜びもそこそこに、次へ次へという力がかかりがちであることは知っておくとよいと思います。

 

3.期待はなぜ有害か

前項のように当たり前と思ってしまうのはやむを得ない面もある中で、どうして当たり前だと思って期待するのを避ける必要があるのでしょうか。

それは期待をすることが害をもたらすからですが、続いてその理由を見ていきましょう。

(1)期待をめぐる社会の病理ー傲慢という病

下山した後、和歌山から実家のある京都に帰る途中、大阪を通りました。

そこで見た都会の光景に、山での生活とのものすごいギャップを感じました。

それは、夕暮れ時にもかかわらず、煌々と輝いてオレンジの光が溢れる駅前の商業施設が入った高層ビルの景色でした。

夜に昼間のように明るくすることも、登るのに一苦労する高さも、電灯やエレベーターを使えば思いのままです。

そう、まさに人が思いのままに自然を屈服させたのが、今の都会の姿です。

列車から見た大阪の風景には自然のかけらさえ見当たりませんでした。

ですが、「自然は人が思いのままなんとでもできる」この思い上がった考えが傲慢を招き、今の病んだ社会を作り出している。

その結果、ほかならぬ自分たち自身がありあまるほどの豊かさの中で不幸をかこっている、その元凶であるというのは穿ちすぎでしょうか。

自然を屈服させたなんていうのは、実は幻想です。大地が身震いするだけで、人の営みなどはかないものです。

日本は災害とともに生きねばならない宿命を背負っているにもかかわらず、経済優先、日々の暮らし優先のなかで、誰もきちんと対応しようとしていません。

なんでも思いのままという幻想の中、死ぬことさえ隠されていて、煎じ詰めればどうでもいいことに毎日忙しくして、やがて歳をとって死んでいく無意味な人生に、みんな本当は気づいているのだと思います。

当たり前の行き着く果てが、自業自得の不幸を生んでいるのです。

(2)他人に期待することでやっていること

個人のレベルでも期待は有害です。人と人との関係において、相手に期待することでやっているのはコントロールです。

もしくは、自分の都合で相手を利用することだと言ってもいいでしょう。

「期待しているからね」

この言葉には、言外に「期待を裏切らないで」「がっかりさせないでね」というニュアンスが込められています。

勝手に期待して、勝手に失望して、その結果責められるのですから、期待を押し付けられた側はたまったものではありません。

期待されるから頑張れる、という意見もあるでしょう。

でも、それは他者からの評価がなければ自分を満たせないと言っているのと同じことです。

本当に相手のことを応援しているのであれば、期待する必要はありません。

期待には、未来の結果次第で、「期待に応える」または「期待を裏切る」のように手のひらを返すような反応をすることが内包されます。

「次があるさ」「またがんばればいい」

この言葉にも、言われた側は、「次こそ失敗できない」「落胆させて申し訳ない」と感じているのではないでしょうか。

本当に応援しているなら、「今」のその人に対する自分の気持ちを伝えれば十分です。

「あなたはすばらしいと思う」でも、「あなたを信じている」でも。

その思いが本物であれば、一時的な失敗でその気持ちが揺らぐこともないはずです。

(3)期待は自分への虐待

一方で、自分に対する期待もまた有害です。

なぜなら、自分への期待を翻訳すると、「このぐらいできて当然、できなかったら承知しないぞ」という思いだからです。

できたとしても当たり前だからスルー、できなかったら激しく責め立てられる。

そんな割りに合わない取引があるでしょうか。そんな条件を他人から持ちかけられたら、即座に断りませんか。

でも、自分に期待するってそういうことなんです。

一番大切な存在であるはずの自分に対して、もはや虐待ではないでしょうか。

なんでそんなことになるのか、疑問に思うかもしれませんが、これにもちゃんと理由があり、あとで触れたいと思います。

4.期待しないことのメリット

期待することがいかに有害かをみたので、期待しないことのメリットをみておきましょう。

期待しないことで得られるもの、それはラクで自由な生き方です。順に見ていきましょう。

まず、他人に対して期待しないことで得られるもの。

期待は相手を縛るとともに、自分自身を縛るものでもあるのです。

相手は期待に応えるだろうか、コントロールと利用が目的なので、その結果を見張っておく必要があります。

期待を裏切られるのではないかという恐れも伴うので、気が休まりません。

相手を責める心は、返す刀で自分をも傷つけます。

一方、期待しないところにいけば、それらの負荷から解放されます。心が軽く、自由です

次に、自分に対して期待しないことは、自分を軽やかにします。

どうせ期待していないのだから、できなくても当然、自分を責めることもありません。

だから、軽やかに動けます。

どうせ大したことないんだから、せめてできることぐらいはやろう、そんな気持ちになるものです。

山行から帰ったあとの私自身がそうでした。

そうやって少しでも動けたら、もともとゼロだったものが、少しでもプラスになったのだから、どんなに小さい成果でも喜びとなります。

うまくいかなくても傷つかず、ちょっとでもできたら自分を褒められるのです。これって、わるくない取引ですよね。

そして、期待ゼロの最大の恩恵は、自然と感謝が湧いてくることかもしれません。

感謝の別の言い方は、ありがとうですよね。

ありがとうの元は、ありがたい、有り難い、つまり、滅多にないということです。

有り難いは、(有って)当たり前の正反対であり、だから、期待しないことは即感謝なのです。

それはあたかも「当たり前」が隠していた「感謝」が姿を現わすような感覚です。

自然に感謝が湧く状態は、ただいるだけで清々しく、すごく気持ちがいいです。

5.期待しないで大丈夫?

ところで、期待は希望的観測の別の呼び名だから、生きていく上で観測しないのは無謀である、このように期待を必要悪のように書いている意見を目にしました。

心置きなく期待を手放してもらうために、一応これにも触れておきましょう。

この意見は、「希望的」観測と、フラットな「予想」や「予測」をごちゃ混ぜにしている点が問題です。

期待は自分が好ましい、都合がよいと思う結果を想像すること、つまりは、ある種の幻想です。

これに対して、予想、予測は得られる情報をもとに結果を想定するものです。

好ましいか、好ましくないかは、予想・予測の段階では外しておき、その結果に対してなされるべきです。

その評価も加味して、自分の行動を選択すればよいのです。

期待を手放すことは、予想や予測を行わずして盲目的に生きることとは全く別物です。

 

6.期待と感謝が生まれる構造

さて、いよいよ期待をしないで生きる生き方について述べようと思います。それに先立って、期待や感謝はいかなるメカニズム(作用機序)で生まれるのかを明らかにしておきます。

それを知ることは、どうすれば期待しないで生きるかを考えるヒントになるからです。

期待が生まれる循環は、下図の通りです。まず、どんな出来事や状況に対しても人は「慣れる」生き物です。

すると、その状況なりが「当たり前」になります。それが好ましいものだった場合、次もこうであったらいいのにという「期待」を生み出します。

好ましい状況が当たり前なので、違った場合は激しい不満に陥ります。思い通りにしたい、ならないと怒るという傲慢に陥ります。

こうなると、自分の見たいもの、聞きたいものしか受け入れないので、感性は鈍くなり、ますます慣れ親しんだ自分だけの世界に閉じこもるようになるのです。

これを書いていて、今ちょうど世間を騒がせている、どっかの大学のア◯リカン◯ットボールの監督を思い出しました。

(期待が生まれる循環)
慣れる ⇨   当たり前 ⇨   期待 ⇨   傲慢 ⇨
⇧                    ⇩
⇦  ⇦  ⇦ 感性の鈍磨 ⇦     ⇦     ⇦

一方、感謝が生まれる循環は以下のようなものです。ありのままをみるところに、当たり前はありません。

すべてが自分の成長に必要なものとしてお膳立てされていることに気づけるからです。

そうなると、その大いなる采配に感謝しか湧きません。それがわかることが悟りです。

悟りが進むと、ますます覚醒して今まで見えなかったものがさらに「ありのまま」見えてくるという循環が生まれます。

(感謝が生まれる循環)
ありのまま ⇨   当たり前はない ⇨   感謝 ⇨   悟り ⇨
⇧                          ⇩
⇦       ⇦  ⇦  覚醒(目覚め)  ⇦     ⇦     ⇦     ⇦

結局、直面したくないものから逃げて幻想に入るか、自分を成長させてくれるものとして心の痛みを感じつつ真実を見るかのどちらかであるようです。

成長ベクトルか引きこもりベクトルかの違いとも言えそうですが、それでは期待しないで生きる方法について、具体的にみていきましょう。

 

7.期待しないで生きる方法

(1)自分と他人の線を引く

自分と他人のあいだに境界線を引くとはよく言われることですが、先日の山行で歩いているとき、なぜかやけに他の人のことが気になりました。

同行した人たちのことですが、私はすこし速く出発して歩いていたので、いつ追いつかれるかと気になって仕方なくなったのです。

無意識に無意味な独り相撲の競争をしているのだと感じ、手放そうとするなかで、ふと思い浮かんだフレーズがあります。

自分にとっての自分の評価は自分が決める(自分にしか決められない)。

他人にとっての自分の評価は他人が決める(自分が口出しできない)。

自分を評価してほしい、すごいと思ってほしいという願望も期待の一種です。

そして、自分の評価、すなわち、自分に価値があるかどうかは、ほとんどの人にとって大きな関心事です。

他人からの評価を高めて自分には価値があることを確認したくて、他人の自分に対する評価に期待することがよく起きています。

しかしながら、「人の思いは人のもの」であり、他人を変えることはできないのです。

かたや、自分の評価は自分でしか決められません。周りの人みんながほめても、本人が頑なにそれを否定して受け取らないのを見ることがあります。

自分の領域と他人の領域をしっかり区別して、自分の領域にはしっかり責任を持つ一方、他人の領域まで踏み込もうとしないことが大切です。

わかっているつもりでも、こと「自分に対する」評価となると、特にあいまいになりやすいので、よく注意する必要があります。

(2)他人をコントロールしたい自分を見つめる

期待とは、相手を高く評価しているふうを装った他人を利用する意図のことです。

他人をコントロールして利用しようとする醜い自分の意図を感じたくなくて、期待というあたかも他人を買っているかのような体裁をとっているのです。

しかし、期待を押し付けられた方は、ほとんどの場合十分それに勘づいています。顕在意識では認識しなかったとしても、潜在的には窮屈で不快な感覚を覚えているはずです。

自分の意図は周りの人から全部見透かされていると思ってみましょう。

それでもまだ他人に期待してコントロールしたいですか?

一方、相手に対して、自分がその人を評価している、買っていることを伝えたい場合はどうすればいいのでしょう。

先ほど述べたとおり、本当に応援しているなら、「今」のその人に対する自分の気持ちを伝えればよいのです。

(3)「バカの考え休むに似たり」と知る

これもよく聞く言葉ですが、多くの人がしている勘違いがあります。

バカとは他人のことで、自分のことではないと思っていることです。

この言葉の真価は、自分がバカと認めた時にのみ発揮されます。

私自身、山を歩いていると、本当に無駄な思考が多いことに気づかされました。

足が痛いことやこれからの行程、天気に対して悲観的観測をしたり、どの辺りまで来たか希望的観測をしてはGPSで現在地を確認して落胆するといったことを繰り返していました。

そして、その思考がエネルギーを浪費して肝心の歩くことへのエネルギーが奪われ、十分に行き渡らなくなることに気づきました。

思考は必要な時だけ使えばいいのです。山歩きだと方針を決定するタイミングとか、道を外れていないかチェックするポイントなど。

私が戒めとしている言葉をあげておきます。入峰の前日、熊野本宮大社でひいたおみくじに書かれていた言葉です。

私たちの身体のどこをとっても、髪の毛一本、爪の先1ミリたりと言えども、自分の思考で作り出したものなどありません。

「すぎた繰り言、取り越し苦労、神の授けの身を破る」

考えても仕方のないことを考え続けるのは「バカ」だと知りましょう。

(4)自分が大したことないと認める

前項の続きのようなところがありますが、自分に失望するのは、自分を大したものと思ってるからです。

期待ゼロのところからはそれ以上落ちる余地がないので、落胆も失望もありません。

勝手に自分に期待して、勝手に失望して、落ち込んでいるって、、、

あたかも自作自演の自己否定ドラマに酔っているようなもの。

客観的に見たら「気持ち悪いやっちゃなー」と思いませんか?(笑)

少しでもそう思えたら、そんな自分を笑い飛ばしてしまいましょう。

期待ゼロの場所って、案外自由で可能性に満ちているものですよ。

自分がたいしたものと思えば力が入る。

たいしたものじゃないと思えば力が抜ける。

風に揺らぐ花のように、力が抜けていると美しい。  小林正観

(5)自他への期待の根本原因を癒す

先ほど、期待は自分への虐待であると述べましたが、最後に期待の根本原因についても触れておきましょう。

なぜ一番大切であるはずの自分を痛めつけたり、他人を利用するようなことを行うのか。

それは自分の中が空っぽで、他から奪って埋めなければどうにもならないという幻想に囚われているからです。

無価値感と言われるもので、代表的にはインナーチャイルドという幼少時の心の傷(トラウマ)が原因です。

親から無条件の愛を注がれて育つ恵まれた人はほとんどいないので、多かれ少なかれ誰しもインナーチャイルドの影響を受けています。

大人としての自分が、子供の頃の「ありのままであってはいけない」「自分は愛される価値がない」という潜在意識の奥深くに眠る思いを、長い時間をかけて根気強く取り組むことで改善が望めます。

「三つ子の魂百まで」というように、変化しにくいものである上、ある程度以上影響を受けていると取り組むことさえ容易でないので、外部の助けを借りるのも一つの方法です。

(インナーチャイルドのヒーリングに興味のある方は、文末にリンクを貼っておきますのでご覧ください)

8.悟りという視点からみる期待と感謝

最後に、期待と感謝をこのサイトのテーマである悟りという視点から見てみましょう。

このサイトでは何度も書いてますが、悟りとはものごとがありのままにみえて、「わかっている」ということです。

ポジティブもネガティブの両方をちゃんと捉えて、そのまま受け入れられる状態です。

(1)期待と感謝という状態

その前提で、期待とは、メリットしか見えていない状態で起きてきます。

たとえば、子供に受験で合格を期待する場合を例に取ると、合格という結果にはプラスしかないと思っているから期待するのです。

もし合格についてのデメリットがきちんと見えたら、期待は起きないはずです。

私の娘の話ですが、3年前の受験の時、共通テストの結果、第一志望の大学をあきらめざるを得ませんでした。

結果として、望んでいなかった大学に進学したのですが、そこでの出会いや経験と自分の努力によって、我が娘ながら人として大きく成長しました。

今では、きっと第一志望校に合格していたら、ここまで来ることはなかっただろうと、妻とも話しています。

起きていないので想像にすぎませんが、不合格は決してマイナスばかりではなかったということです。その逆もしかりなのです。

感謝についてはどうでしょう。感謝の逆を不満と捉えるなら、不満はデメリットしか見えていない状態です。

デメリットだけでなくメリットも見えて、出来事や相手の言動が、自分の成長を促してくれているとわかったら、不満は消えて自然に感謝の思いが湧くものです。

(2)感謝の本質

そういう意味で、感謝と悟りは密接な関係があります。悟りが進むほどに、感謝の幅が広がり、深さが深まると考えられます。

感謝は、ポジティブもネガティブもありのままにみて、受け入れることができるところに生まれます。

これは愛と呼ばれる状態です。

愛と呼ばれる状態に近づくのが悟りであり、感謝は結果としてついてくるものです。

悟っている人にとっては、感謝は常にあるものなのです。

(3)感謝から悟りに近づく方法

ところで、悟りに近づくために感謝しましょうという人がいます。

本質から言えば逆のようにも思えますが、本来の意味から言えばこうです。

どんなに悪くみえることも、ポジティブな一面があり、それをちゃんと捉えることができれば感謝に至れるのだ。

だから、その必ず存在するポジティブな面を探そう、ということです。

あると思って探せば見つかるし、ないと思えば絶対に見つからない、本質とはそんなものだからです。

無理やり、ありがたいと思い込もうとしても、あまり意味はありません。

不満を感じていることに蓋をして、顔だけニコニコ笑っていても、目が笑っていないという怖いことになりかねないのでご注意ください(笑)

9.まとめ

以上、期待と感謝の本質、期待しないことで自然に感謝が生まれることについて述べてきましたが、いかがだったでしょうか。

読者のみなさんが、期待という自分も他人も縛る檻から解放され、感謝に満ちた自由で軽やかな毎日を送られることを願っています。

以上

 

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この記事を書いた人

祇場 駿矢(しば しゅんや)
幼い頃から「人は何のために生きるのか」「人はどこからきてどこへ行くのか」「ここは自分がいる場所ではない」などと考える子供だった。

ところが、昭和の成功の常識に染まり、京大法学部からメガバンクに。バブル崩壊からITバブル、リーマンショックなど日本経済の栄枯盛衰を経験。

忙しい毎日を送りつつも、目に見えるモノ(物質、金銭、地位、肩書き)では、決して心が満たされることはないことに気づく。

世間的なうたかたの価値に見切りをつけ、人間が生きることの本質的価値を探究して2014年に銀行を退職、起業する。

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