悟りと諦めの関係については、立場によって色々な考え方があります。まるで違うとする考え方、同じものとする考え方です。諦めについて考えを深めていくと、悟りにいたる道が見えてきます。
1.悟りと諦めに関する2つの考え方
悟りと諦めの関係を考えるにあたって、まずは両方の考え方を見ていきましょう。
まず、悟りと諦めは違うものとする考え方です。この場合の諦めるは、日頃一般的に使われている「あきらめる」の意味に近いものです。途中で断念すること、本当は欲しい気持ちを却下することです。ですので、望みを断つ、絶望などネガティブな意味合いが強くなります。一方、悟りは、希望、ポジティブな意味合いが強くなるでしょう。この点で、一見似たところもあるが、両者は異なるものという解釈です。
次に、悟りと諦めは同じものとする考え方を見てみます。この考え方を採る立場の人は、諦めるに、手放す、降参する、許容する、受け入れるなどの意味合いを持たせているようです。自我がなんとかしようとする働きが、悟りの妨げになるので、自我が降参する、悟ることを諦めることが必要だと言います。なるほどですね。
さらに、諦めるの語源は、明らめるであり、すなわち、明らかにする、つまびらかにする、が本来の意味です。そして、漢語の「諦」は、梵語のsatya(サトヤ)への訳語であって、真理、道理を意味します。つまり、ものごとの道理をわきまえることによって、自分の願望が達成されない理由が明らかになり、納得して断念する、というプロセスをたどるわけです。
たしかに道理をわきまえた上であれば、なにかを諦めた場合でも心残りや未練がなくなるのでネガティブな意味付けは薄くなり、悟りに近いものになりそうです。
この道理をわきまえるということを「諦める」に含めるか否かが、両者を分けるポイントとなっているのかもしれません。仏教では煩悩がなくなると悟りに至るとされていますが、三大煩悩にして最も根源的なものが道理を知らず愚かなこととされているのに照らしても妥当と思われます。
また、この道理をわきまえることの中身については、人間にコントロール可能か不可能かが重要な意味を持つと思われます。人間にコントロール不可能なことを思い通りにしようとしても、絶対に叶わず執着となって、悟りから遠ざかるばかりだからです。
このように見てくると、「諦める」という言葉をどのように捉えるか次第でどちらの説も成り立つものと考えられます。
しかし、私はこの諦めるという概念をより精緻に扱うことで、悟りに対する理解を一層進めることができると考えています。
2.様々な「諦める」は悟りのプロセス
これまでに見た二つの「諦める」を、悟りのプロセスとして考えてみることもできます。
すなわち、一番目の希望を絶って断念するのあきらめる。これは、出家に代表される、悟りを目指す上で、世俗的な欲の一切を諦めることです。出家、あるいは、悟りを決心した段階では、当然ながら深い道理をわきまえているはずはなく、無理やり欲を絶っている状態です。つまり、形から入っているわけです。
次に修行をして、道理をわきまえるようになると、「手放す」、「降参する」という意味での「諦める」が起きてきます。これにより、人間にコントロールできないものはもちろんですが、コントロールできるものも、手放すことができます。
元々は苦しみの原因を自分の外に求めている状態、他者を責め、自分を被害者とする立場です。そこから、すべての苦しみは思い通りにしたいという自分の欲から生まれているのに気づき、その思いを手放すということです。自我がなんとかできるという幻想から覚めて、降参するということです。
そして、さらなる悟りの段階として、「明らかにする」という意味の「諦める」が続きます。明らかにするものは、「自分とは何者か」ということです。デルポイのアポロン神殿の入口に刻まれた古代ギリシャの格言「汝自身を知れ」は、洋の東西を問わず、世界共通の人類の根源的な問いかけなのでしょう。
自分が明らかになると、宇宙は自己の内面が映し出された幻影という見方や、内と外とは同じものという見方が示すように、全宇宙が明らかになります。古代インドの覚者は瞑想を通じて宇宙の仕組みに通暁していたと言われますし、釈迦もまた悟りによってすべてを見通す天眼通を得たと言われています。
このように、悟りと諦めは一面的な関係というよりは、悟りに至るプロセスの中で、徐々に意味合いを変えていくものと規定するのが最も妥当という気がします。
そして、また、「諦める」の意味の微妙な差異を汲んでいくと、これまで語られて来なかった悟りに至る新たな道が開かていることをお伝えしたいと思います。
3.悟りに至る2つのプロセス
(1)旧来の悟りの道
旧来の道は、すでに説明した上述の経過を辿る道です。形から入ってまず欲望を捨て、あとで修行によって心身を浄めることにより、道理、真理に達するやり方です。
欲望とは、人間の五欲と呼ばれる食欲、睡眠欲、性欲、財欲、名誉欲のうち、仏教などでは概ねあとの3つを対象としています。釈迦が6年間行じたのち放棄した苦行とは、食欲や睡眠欲などの生存に関わる欲求さえ捨て去ろうというものでした。
なぜこのような修行をしたかというと、上記五欲はすべて自我が己を生かそうとする働きだからです。前の3つはわかりやすいですが、お金もたくさんあればあるほど地位も高ければ高いほど生存が容易になります。
悟りの邪魔になる自我を脱落させるための修行は、生命が生きようとする働き自体を否定し、殺ぎ落すものです。言わば、生きるか死ぬかのせめぎあいの中で、死中に生を拾うかのような、ぎりぎりの厳しいものであったということです。
苦行においてはこれが端的に表れていますが、仏教も修験道も、滝行、回峰行、座禅など種類は違えど、修行が目指す方向性は同じです。
(2)新しい悟りの道
悟りを目指すには欲を断つこと、そのために修行することが常識とされてきました。新しい悟りの道は、全く新しいアプローチを採ります。
新しいアプローチとは、欲求を否定しないことです。「そんなバカな」と思われるかもしれません。そんなことをしたら、際限ない欲望の虜になって、悟りどころか身を滅ぼすことになりかねない?
たしかに、何も対策を取らないとその可能性も否定できないでしょう。しかし、そうなるにもちゃんとした理由があります。原因に適切に対処してあげれば、欲望が際限なく膨らむことはなくなります。
「座って半畳寝て一畳。天下取っても二合半」という言葉があります。
人が身を置くのにはそれだけのスペースしか取らないし、食べる量も自ずと限度があるから、あまり欲張るなという意味です。
ありのままの人間を見る、一つの見方と言えるでしょう。
究極なのは、野生で生きる動物です。
肉食獣は満腹であれば、獲物になる草食獣がそばを通っても見向きもしません。草食獣も心得たもので、獲物を狩るモードでないときは、安心してくつろいでいます。住処だって自然から借りているだけです。縄張りを持つ種もいますが、生きるために必要な分しか欲しません。
人間も、もしかするとそれに近い生き方が可能なのかもと思います。「ミュータント・メッセージ」という本を読めば、オーストラリアの原住民アボリジニがそうした生き方をしていたことが伺えます。
彼らも何も持たずに生きているます。食べ物を与えてくれるよう自然に祈るとき、「自分たち、そして、獲物となる生き物、その他すべての存在にとってそれがよいことなら」という前提で祈りを捧げます。
つまり、それがよいことでないなら、獲物が与えられことはないし、自分たちが生命をつなぐことはできないことを受け容れているのです。これは先にプロセスとして述べた第2段階の「諦め」の一つです。おそらく、第3段階の自分たちが何者かもすでに「明らめている」ようにも思えます。
アボリジニ全部がそうだとは言いませんが、ミュータント・メッセージに描かれたアボリジニの人たちは、明らかに悟った人たちなのです。
ちょっと話が逸れました。
もちろん、現代社会に生きており、悟ってもいない私たちが、そこまで徹底した生き方をすることは土台無理な話です。
しかし、本能で生きている動物がそうであるように、人間の生命を維持しようとする根本的な機能は、際限なく欲張りではないのです。私はここに希望を見ます。自我の根本にある生命維持欲求は、本来、自分の身体が十分保たれるならば、比較的すぐに満足します。そうなっていないのは、その上に積み重なったものが問題を起こしているからです。
そうでもしないと安心できないと思っている心です。その根底には自分は愛されていないとか、生きる価値がないという自分に対する自信のなさが横たわっています。だから、先に見たようにお金や地位は多いほど、生存が容易になる(面があるもの)を際限なく求めてしまうのです。
その原因に少しだけ触れておくと、過去生、誕生時、幼少時におけるトラウマ(心の傷)です。トラウマがそれに見合う出来事を引き寄せて、「世の中は恐いところ」「お金があれば自分に価値がある、だから大切にされる」など、固定観念化していきます。
当たり前ですが、お金があったり地位があったからといって、人としての価値が高まるものではありません。尊敬されるわけでも、愛されるわけでもないのですが、そういう人たちはなかなかそれに気づけず、無価値感に苦しみながらさらに求めることをしてしまうのです。
ということは、こうしたトラウマや固定観念といった原因に対処していけば、欲求は適正に満たされるのです。これは食欲や睡眠欲等だけでなく、あくまで適正な範囲ですが、お金や名誉といった欲求にも当てはまります。
つまり、人が健全な自尊心を保持する上で適当な欲求は、満たされるべきものなのです。そうすることで、自分の思いは満たされるべきだし、実際満たされるし、自分にはその価値があるという自己価値や自己肯定が生まれるのです。
これはとても健全だし幸せなことではないでしょうか。私はほとんどのことは自分でコントロール可能だし、欲に振り回されなければ、思い通りにすることが可能だと思っています。
ただし、欲に振り回されながら、お金を十分に持っているので思い通りになっている状態はちょっと違います。これだと第二段階にうまくつながりません。
ですから、新しい悟りの道では、第一段階では「諦める」、無理に断念することをしません。むしろ、思い通りの人生というのが第一段階です。
しかし、思い通りになればなるほど、どうしても思い通りにならないものが際立ってきます。それが人間にはコントロールできない領域です。具体的には、人の生き死にに関わること、事故や災害、大きな病気などです。
この世が思い通りになった人の関心が向かうのが不老不死であるのは、歴史が語っているとおりです。そして、それが不可能なことも。
ここで、そのなんとかしたいという思いを「手放す」必要が出てきます。自分が年老いることも、事故や病気で愛する人を失くすことも、災害で命を失うことも、降参し、受け容れる。つまり、「諦める」のです。これが新しい悟りの道の第二段階です。
続く第三段階は、自分と世界を「明らめる」点は同じです。
新しい悟りの道の特長は、無理がないことです。
生物としての本能的な欲求を始め、基礎的な欲求を否定しないからです。マズローの五段階欲求説でいえば、生存、安全、承認などの低次欲求が、無理なく満たされます。
旧来の悟りでは、生きたいという欲求と自分の心を成長させたいという欲求がまともにぶつかり合う感じでしたが、新しい道は同じベクトルを向いているのです。
この生命の原理に適っていることは、エネルギーを活用しやすいことや無理なく進める点で非常に有利であると言えます。
そして、もう一つの特長は、出家する必要がないところです。出家の目的は、世俗の欲をすべて無理矢理にでも断ち切ることでしたが、そもそもその必要がないからです。
このため、原理的には全ての人が悟ることが可能です。出家を必須とする方法だと、全員が出家すると、食料の生産をはじめ生活に必要な商品やサービスを提供する人がいなくなってしまいますから。
全員自給自足すればとか、アボリジニやネイティブアメリカンのように原野で生きればとか、可能性がないわけではないですが、かなり無理があります。
かたや新しいルートの短所はなんでしょうか。何事にも短所は存在します。
まず、欲に飲み込まれる危険性が常にあります。欲を増幅する原因となるトラウマや固定観念は一朝一夕にクリアにできるものではなく、進みながら取り組んでいく必要があります。
また、出家により生活を一新しないので、自分でしっかりコミットしないとぐずぐずになる可能性があります。取り組みやすいですが、修行とは別の意味で、主体性ある取り組みが求められるということかもしれません。
4.まとめ
悟りと諦めの関係を考えてきましたが、いかがでしたか。
どうやら悟りと諦めは、平面的、静的にとらえられるものではないようです。
悟りのプロセスを進める中で、諦めという言葉自体が、「断念する」「手放す」「明らかにする」など内在するさまざまな意味合いに変化し、心の成長が進んでいくようです。
そして、新しい悟りの道では、無理に「断念する」ことなく、より上位の「諦める」を実践していくことが可能でした。
「一寸先は闇」と言われる現代においては、出家や生存欲求を否定しないやり方以外で、悟りを目指す道が確立されていく必要があると感じています。
以上