悟りの窓

魂とつながる日本固有の自己成長の道

悟りの境地に関する見解を整理してよくある疑問に答えてみました

約12分

悟りの境地に興味を持つ方はそれなりに多いようですが、その実態はとなると、いろいろ調べても正直よくわからないと言ったところではないでしょうか。

よくわからないので自分とはかけ離れたもの、縁のないものという認識になるのも無理からぬところでしょう。

しかし、実際には、魂に刻まれた使命や目的を果たし、ひいては人生を幸せに生きるうえで、悟りを抜きにしては考えられないというほど関係が深いものです。

そこで、悟りの境地に関してのさまざまな考え方を整理しつつ、悟りとはどんなものか、そして、悟りに関してのよくある疑問にも答えてみました。

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1.悟りの境地に関する様々な言説

(1)自我がなくなる

悟ると自我(自分)というものがなくなるということは様々な人が言っています。

この考え方によれば、自分という意識=自我は本当の自分ではなく、本当の自分である真我の出先機関のようなものです。

自我には実体はなく、幻のようなものだと言います。悟りとはその幻想に気づくことなので、悟ると自分という意識が消えて、全体と一体化すると言います。

悟ると自分という区別されたものがなくなるので、ゆえに、個人が悟るということはあり得ないのだと言われたりもします。

(2)過去と未来が消滅する

悟るためには、「今ここ」で生きることが必要だし、悟った人は「今ここ」でしか生きていないとも言われています。

実のところ、過去や未来を考えるのは思考であり、感覚の世界には今この瞬間しか存在しません。
明日をよりよいものにしたいというは誰しも願うところですが、そのために何かできるのはあくまで今日しかないということです。

毒矢に射られたら、誰がとか何でとか、あれこれ詮索する前に矢を抜いて治療しなさいという毒矢のたとえという釈迦の教えがあります。

あれこれ考える前に、今できることをしなさいということですね。

そこから、思考でなく、感覚を大事にしなさいということを言う人もいます。

すべての煩悩から解放されること
煩悩とは言ってみればしつこい欲望のことで、自分が思い通りにしたいという思いです。

思い通りにしたいのに、思い通りにならないから、人生に悩みや苦しみが生まれます。

悟りは、このような煩悩から解放されて、どんなときも心が穏やかになった状態をいいます。

常に自分の思い通りになるということは絶対にあり得ないので、思い通りにしたいという思いの方を手放さなければなりません。

だから、悟りの境地とは、思い通りにしたいという思いを手放した状態という言い方もできるでしょう。

(3)悟りを得たいという欲を捨てること

悟りを得たいという欲求を持っているかぎり悟れないという一種の矛盾が、悟りをむずかしくしていることもあるようです。

その欲求も、思い通りにしたいという思いの一種ですから。

ですから、悟りを求めているうちは悟れないし、悟りは向こうからやってくるものだとも言われます。

まぁそもそも、最初に述べたように、悟った自分というものもいなくなるわけなんですが。

(4)無の境地

悟りの境地は無の境地と表現されることもあります。自分をなくし、過去と未来もなくし、思考もなくし、思い通りにしたいという欲求も手放す。

ないないづくしですから、無の境地という言い方もぴったりかもしれません。

自我は幻と述べましたが、自意識は世界を映すスクリーンのようなものとも言われます。

映画のスクリーンを思い出していただけると、真っ白だからどんな映像もキレイに映し出せますよね。

自意識は無であり空だからこそ、真我という主体が映し出された世界を觀照するための客体となり得るというわけです。

魂に刻まれた使命や目的を思い出す
悟りの状態とは、魂が持っているこの世で果たすべき使命や、生まれてきた目的を思い出すことだという考え方があります。

魂とは、幻影とされる自我ではなく、真我、または、真我により近い本質的な自己であると考えられます。

一見するとつらくネガティブな体験が、自分の生き方を見直す機会となったり、精神性を高めてくれたり、その時のご縁で人生の目的と思えることに出会ったりという話は、非常によく耳にするのではないでしょうか。

つらい出来事が実は自分を成長させるため、魂の目的に気づかせるために起きている、そんな気づきも一つ悟りの状態に近づくことと言えるかもしれません。

(5)本能のままに生きる?

今自分に起きているすべてを受け入れ、何も思わない。考えない。という人もいました。

その人の考えでは、悟った人は、本能以外のすべてのことに興味がないそうです。

無意識に息をして、腹が減ったらご飯を食べて、寝たければ寝る。死ぬときは死ぬ。何も考えないで本能のまま過ごしている。

みたいな感じだそうです。。

 

2.すべてを包含する悟りの境地とは

(1)悟りの境地について理解不能に陥る理由

このように見てくると、悟りの境地とは自分、思考、過去や未来を捨てさり、悟りを得たいという欲さえも手放して、究極は無に近づくものという一つの考えがあるようです。

一方で、本当に無なのではなく、魂の目的につながるという考え方、いやいやそんなものなくて、本能だけが残るよという考え方も。

これを書いていて、盲人と象のたとえを思い出しました。

象という生き物を知らない目が見えない人に、象の体の一部を触らせて表現させたらどうなるか。
ある人は鼻を、ある人は耳を、ある人は胴体を、ある人は脚を、ある人は尻尾を触って表現させたら、どうでしょう。

もちろん聞いた人も象を知らなくて、それが生き物であることも、体の各部だということも知らない前提です。

悟りについても、同じようなことが起きていると感じます。

つまり、前の章で述べたことは、一つ一つは間違いではないが、悟りの境地についての全体像を表現したものではないと言うことです。

(2)悟りの本質とは

それでは悟りの全体像を一言で表すとどうなるでしょう。

それは真理を悟ると言われるように、本当のことを分かっているということです。

本当じゃないことを分かるのは誤解であって、悟りであるはずがないので、結局、悟りとは分かっていることになります。

では、なにを分かるのか?

それが一番近くて一番遠い存在である「自分」です。

知るという行為には、主体と客体が必要なんですが、自分が自分を知ることになると、主体と客体が同一で知るという行為が成立しないようです。見るという行為で考えると、よりわかりやすいかもしれません。

みんな当たり前に知った気になっている自分というものは、実は突き詰めると哲学上最大の謎だったりします。

そして、どうやらその自分というものと、この宇宙全体が実は一つのものであるらしく、それも含めて自分を分かるのが悟りの境地ということになるようです。

(3)多彩な一面を見せる悟りの本質とは

では「分かっている」という悟りの本質が、なぜ前の章で見たような性質につながるのでしょうか。

それを知るには象の場合と同様、目では見えない心の働きを分けて捉えることが必要です。

心は以下のように大雑把に言えば4層からなります。

  •  自分という意識(自我、思考、顕在意識)
  •  感情
  •  魂(本当の自分、真我、潜在意識)
  •  普遍意識(宇宙意識、遍在するもの、一なるもの)

究極の宇宙の真理というものは、私たち一人ひとりの正体が普遍意識であるということです。

一なるものは、一つであったゆえに、自分を知ることができませんでした。(自分を知ることが哲学最大の疑問ということは実はここからきています)

そのために、二元の世界を作り出し、私たちの意識をとおして、自分を知ること、つまり、観察しています。

例えていうと、この宇宙は映画館、普遍意識が観客で、私たちの自我は映画のスクリーンのようなものです。

映画のスクリーンは何色でしょう?白無地ですよね。白無地だからこそ、どんな映像でも邪魔をすることなくきれいに映し出せます。

私たちの意識も同じです。あらゆる可能性が発現する場として空であり無という性質があるのです。

普遍意識は、私たちの意識という窓を通して、この世界を見ているのです。

意識の空性に気づき、この世界が私たちの意識に映し出された幻影のようなものであることに目覚めること、それが悟りの境地の一部なのです。

しかし、それで終わりではありません。空に気づいたからと言って、相変わらず肉体はあるし、世界も消えてなくなりません。

もう一つの謎、それは他人という存在です。

他人もまた、普遍意識の表れであり、全宇宙を映し出すスクリーンです。互いに独立しているわけではなく、私との相互関係のなかで現実を作り出しています。

その全体には自分と他人は違う存在ということがあり、その違いを作り出しているのが魂です。

よって、普遍意識が目的を果たすには、魂がより前面に出た生き方になっていく必要があります。

自分という意識が空(からっぽ)であり、自我には実体がないことに気づき、魂とのつながりを深めていく、これも自分を知り、世界をわかっているうえで大切なプロセスです。

だから、悟りの境地に、魂の目的に目覚めるという性質が入ることになります。

ちなみに、本能だけで生きるという人や、自分というのはすべてストーリーであり幻である(非二元)という人は、自我だけが世界のすべてであると勘違いしています。

耳だけが象のすべてであると主張するようなものです。

悟りの境地には、地球人が未だ到達しておらず想像していないような段階があります。

では最後に、悟りの境地に関するよくある疑問に答えることで、より悟りについての理解を深められたらと思います。

3.悟りの境地に関するよくある疑問

悟りは一瞬?それとも長い修行が要る?

両方のことを言う人がいますが、これも前章に照らすと簡単です。

自分という意識の空性に気づくことは一瞬で可能です。しかし、その先があります。

例えば、魂との繋がりを強めるには、自分の中にある思い込みを手放したり、感情の滞りを解消したり、潜在意識にあるトラウマ(心の傷)を癒したりといったことが必要です。

すべてはエネルギーですが、それがクリアな状態でないと、濁った水では先が見通せないように、魂からの情報も届きません。

これをクリアにすることは一瞬では不可能で、地道な取り組みが必要になります。その取り組みですが、一般に修行と呼ばれる肉体を痛めつけるようなものである必要はありません。

これについては次の項で。

悟るためには修行は必要?

仏教の世界では、出家して俗世間の欲望を捨て、厳しい修行に打ち込むことが必要とされてきました。

例えば、滝行、山谷を駆ける、断食、眠らない、立ちっぱなし、など肉体を痛め、ときに命の瀬戸際までいくことも厭いません。

思い通りにしたいという欲求、執着が、悟りへの障害であることはたしかにそのとおりですが、際限なく求めてしまうことにも理由があります。

お腹いっぱいになったライオンが、目の前を通るガゼルに見向きもしないように、生きるための基本的な欲求は案がすぐに満たされるものです。

にもかかわらず、たとえばお金を際限なく求めたり、そのために他人を犠牲にしたりしてしまうのは、根底のところで自分は愛される価値がないと固く信じているためだったりします。

その無価値感をお金で埋めようとするのですが、どこまでいってもできるものではなく、際限がなくなってしまうのです。

となると、何もすべてを捨てなくても、トラウマを癒しつつ基本的欲求を満たしてあげれば、修行である理由はなくなります。

むしろ、質の良い食べ物などは、感性を高め自分を満たすことにつながります。感性が高まるとはすなわち、キャッチできる情報量が増えることであり、世界をわかる、ありのままに捉えるには好都合です。

そして、自分を認め肯定することが、その逆よりも悟りの境地に近いことも言うまでもないでしょう。

ただし、繰り返しになりますが、出家や修行は必要ないとしても、自分に向き合い、見たくないものを見て(通常痛みを伴います)、過去の滞りをクリアにしていく地道な取り組みは不可欠です。

悟りの境地と一瞥体験や覚醒体験の違いは?

悟りの本質を思い出してください。世界や自分が分かっていることでした。

本当の意味で分かっていることとは、常にその意識で生きているということです。

一瞥体験は、なにかのきっかけで一時的に(一瞬から一週間程度)その意識状態になることです。
本来、悟りの境地に達するには、劇的な体験は必須ではありません。あることもあればないこともあります。

例えて言えば、一瞥体験は山登りの途中、樹々の枝が開けたところで良い景色が広がるようなものです。

ここまで登ってきたんだなぁと素直に喜ぶのはいいですが、特別な意味づけは百害あって一利なしです。

悟ると超能力者になる?

なります。宇宙を知ると言うのは、目に見えない次元やエネルギー波動も当然含まれます。

一般に、霊的能力だったり、超能力と呼ばれるような能力は当然発揮されていきます。

順序としては、対象を知り(知覚し)、コミュニケーションをとることで、動いてもらうイメージでしょうか。

注意が必要なのは、悟りの段階に応じて能力は現れますが、能力があるからと言って悟っているかといえば、答えは明確にNOです。

「逆は真ならず」というやつですね。

これは能力に焦点を絞って鍛えれば、能力だけは高まるが、心はついていかないということです。
肉体の鍛錬と同じと考えればいいでしょう。武道などで心身を鍛えれば総合的な自分の状態が高まりますが、闇雲に筋トレだけして、しかもそれを鼻にかけるような人は人としての底が浅いのと同じです。

悟ると宇宙が消滅する?

これもYESです。しかし、地球で考えられているようなレベルよりもっとずっと高いレベルの悟りです。

誰かが、意識でワンネスを経験したからと言って、何も起こりません。

もし魂レベルで本当のワンネスの状態になる人が現れれば、その選択も可能と考えられるでしょう。

 

4.まとめ

悟りの境地について、性質や特徴をなるべく全体像が把握できるように述べてきたつもりですが、いかがだったでしょうか。

悟りは間違いなく他では変えがたい本物の価値であり、魂の目的であり、すべての人に共通の幸せを与えてくれるものです。

細部にこだわりすぎることなく、悟りという生き方を実践することで、より充実した幸せの人生を生きたいものです。

以上

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この記事を書いた人

祇場 駿矢(しば しゅんや)
幼い頃から「人は何のために生きるのか」「人はどこからきてどこへ行くのか」「ここは自分がいる場所ではない」などと考える子供だった。

ところが、昭和の成功の常識に染まり、京大法学部からメガバンクに。バブル崩壊からITバブル、リーマンショックなど日本経済の栄枯盛衰を経験。

忙しい毎日を送りつつも、目に見えるモノ(物質、金銭、地位、肩書き)では、決して心が満たされることはないことに気づく。

世間的なうたかたの価値に見切りをつけ、人間が生きることの本質的価値を探究して2014年に銀行を退職、起業する。

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