悟りの窓

魂とつながる日本固有の自己成長の道

令和のサトリのミチ

令和のサトリのミチ

このページを見ているあなたは、きっと悟りに興味をお持ちだと思います。

その理由はいったいなんでしょうか。

精神的成長、魂の成長こそ、人間が生きることの本質的価値であると直感しているから、かもしれません。

または、複雑で多様化した現代社会、至るところで関係者の利害が対立し問題は増える一方、現実的な手段での解決はもはや不可能。

悟りのような目に見えない本質の次元からアプローチするしかない。

そんな思いからでしょうか。

でなければ、ずっと生きづらさを感じて生きてきて、いろいろ試してみても、良くなるのは束の間だけ。

いずれ元に戻ってしまい、結局改善しないことの繰り返し。

「もういっそ悟りでもしない限り、無理かも」と思ったのかもしれません。

そんなあなたの直感や思いは、正しいとも言えるし、そうでないとも言えます。

以下ではその意味を説明していきます。

1.悟りではなくサトリ

私がお伝えしたいのは、サトリという生き方です。

悟りではなく、サトリです。

何が違うのでしょうか?

まず第一に、意味するものが異なります。

一般に悟りというと、釈迦が到達したある特定の精神的境地を指すようです。

一方、サトリはレベルの低い方から高い方まで、ずっと幅広い範囲を意味します。

辞書で「悟る」を引くと、「道理を知る、明らかに知る」といった意味です。

サトリの低いレベルは、それに近いイメージです。

たとえば、思い込みを外し正反対の見方を得心して受け入れるのもサトリの一種です。

なんだそんなことかと思ったかもしれませんが、実はそんなに簡単ではありません。

一例を挙げると、ある年齢以上の男性の中には、「女性は男性より劣った存在である」と固く信じている人がいます。

私は愚かな考えだと思いますが、その人のなかでは太陽が東から昇るくらいの絶対的真実だったりします。

そこまで凝り固まった人は、おそらく一生その考えを改めることはないでしょう。

そして、そのような偏った見方をしている以上、精神成長はかなり低いレベルで頭打ちとなります。

それほどでなくても、一つの考えを改めるのに10年単位で時間がかかることはザラです。

それぐらい多くの人は自分の考えという自分で作った檻に囚われています。

一方、サトリの高いレベルは、宇宙意識、神といわれる高次元の存在にさえ並び、その境地は無限です。

当然ですが、釈迦が達した境地よりも遥かな高みに位置します。

第二に、サトリは悟りとは比較にならないほど古い歴史があります。

仏教思想の悟りの歴史は、日本では約1500年、インドでの発祥からでもせいぜい2500年ほどです。

これに対してサトリは、上古代と言われる数万年前から縄文時代を経て、この日本で脈々と受け継がれてきた可能性があるのです。

以上を簡単にまとめると、次のとおりです。

 「悟り」・・・仏教思想に代表される従来の悟り 釈迦が達した境地 2500年

 「サトリ」・・広範な本来のサトリ 「道理を知る」から宇宙意識まで 数万年

2.なぜ悟りではダメなのか

悟りとサトリの違いがわかったところで、私が悟りではなくサトリを押す理由はシンプルです。

今までの悟りという考え方は、現代を生きる私たちの人生をよくする上でほとんど役に立たないからです。

その理由が、仏教に代表される悟りを目指す修行の方法です。

本質的に、生命を生かす方向ではなく、抑圧して無理な力をかける方法論であるためです。

先日テレビ番組で古い伝統のある仏教宗派の修行法を紹介していました。

90日の間お堂にこもり、食事、便所、沐浴以外の時間ずっと(横になって眠ることもせず)、仏の名を唱えながら堂内を廻り続けるといいます。

かなりたいへんな修行ですが、もっと厳しい修行もあるそうです。

しかし、歴史上たくさんの僧侶が修行したことでしょうが、事実としてほとんどの人は悟っていないようです。

なにより現代で普通の生活を営む私たちにはまったく真似できません。

たしかに精神力は鍛えられるでしょうが、反動も起きやすくかなり非効率だと思います。

修行が好きな人は、それを選択するのはもちろん自由ですが、私はより楽で効率がよい方法がいいです。

そして、悟りの境地を至高とする考えに至っては、役に立たないというより有害と考えています。

理由は、単なる通過点を達成困難なゴールとして集合意識に刷り込むことで、多くの人の精神成長の可能性を狭めているからです。

人類が陸上競技で100メートル10秒の壁をなかなか超えられず、一人が超えると多くの人が後に続いたのと同じ原理です。

地球人類の未熟な精神レベルを考えたとき、悟りを広大な宇宙においての最高の境地というのは、とてもおこがましいことに思えます。

少なくとも釈迦はそんなことは一言も言っていないと思うのです。

この世を魂の学校に例えるなら、レベルから見て、地球は幼稚園か小学校みたいなものでしょう。

中高、大学のような星も存在するはずです。

小学校で一番だからと言って、全体で一番と考えるのはどうかしているように思います。

3.日本古来のサトリとは

これに対して日本古来のサトリとは、どのようなものでしょうか。

一言でいうと、はるか昔から受け継がれてきた、生命をよりよくするための生き方の指針です。

宗教という範疇さえ超えていて、もちろん単なる精神論ではありません。

その一つがカタカムナ文献です。

目に見えない世界を含めた物理学のような位置づけで生命や物質の成り立ちを説くものです。

日本語の元になったとも考えられており、多くの文字に今のカタカナとの類似が認められます。

実際、サトリという語句はカタカムナ文献に頻出します。サトリをカタカナ表記していますのは、実はそこからです。

また、縄文以降の古神道は、カタカムナの原理を継承しつつ、自然を教師として神に近づく(還る)生き方を教えています。

今どんな段階であっても、よりよくなることを目指して、一生かけて人生という道(ミチ)を歩いていくようなものです。

このように、サトリは目指すものではなく生きるものです。

なので、「サトリのミチ」(サトリを目指す生き方)という表現がしっくりきます。

この「ミチ」もまたカタカムナの言葉であり、ミチル(満ちる)にイメージされるように生命力を満たしていくという意味があります。

日本人が、武術、芸事について万事を人間としての修養と位置づけ、柔道、茶道、華道をはじめ○○道と呼ぶのは、ここからきているのです。

ホツマツタヱでは、クニトコタチ(国常立尊)の神が人々が安心して心を磨き人格を高める道場として日本を建国したと伝えています。

歴史では強者が弱者を力で支配して国ができたと教えますが、他の国はそうでも、日本は全く事情が異なるのです。

4.令和のサトリのミチ

そして、カタカムナでは、物質的なもので満たされる人と、目に見えない精神的なものでないと満足できない人の二種類があるとされています。

本来その比率は半々であり日本では比較的バランスが保たれてきましたが、物質主義の現代にあっては、圧倒的に優勢な前者の前に、後者は小さくなって生きることを余儀なくされています。

そして、これを読んでいるあなたは、間違いなく後者、すなわち、目に見えない精神的なものの価値を感じる感性を持った人でしょう。

現代は、そうした感受性に優れた人が非常に生きづらい世の中です。繊細なだけに傷つきやすいためです。

やさしさや思いやりは競争社会の中で本来の価値を認められず、引きこもりや鬱などに追い込まれる人も少なくありません(すべてがそうではないと思いますが)。

こうした人が幸せに生きる方法こそ、「サトリのミチ」であるのです。

ただし、残念ながら古来の形をそのまま持ってくることはできません。

明治以降の環境の激変でかつてあった仕組みは損なわれ、日本人の精神性も大きく低下したためです。

そこで、提唱したいのが「令和のサトリのミチ」の生き方です。

その指針は三つ。

はじめの二つは、「自然さ」「感じる力」を高めることです。これらは古来の教えのとおりです。

そして、現代において特に重要さを増しているのが、三つめの「手放す」ことです。(より詳しく知りたい方はこちらもどうぞ(「令和のサトリ」三つの原則・指針))

現代の得ることに価値をおく文化では、余計なものを持ちすぎているからです。

実はこれこそが、自分以外の者になろうとして「自然さ」をなくしたり、ガラクタに埋もれて「感じる」力を低下させています。

この三つの指針の下、生命をよりよくする生き方が、令和のサトリです。

このサイトでは、令和のサトリのミチという、心から満たされた人生を生きる方法を紹介していきます。

サトリのミチの復興こそ、人類が生き延びる希望であると信じます。

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