手放す生き方のススメで触れたように、手放す生き方は目新しいものではなく、縄文古神道の考え方がベースにある点で、日本人にとても馴染みのある考え方です。
((日本人は古神道の人間観、人生観、すなわち、性善説=人の本性は善である、楽観的に楽しく暮らし方、寛容で包容力があり明るく清らかに生きるなど、を大切に守ってきました。))
ここでは、両者の密接な関係について、古神道の素晴らしい考え方をさらに掘り下げつつ、説明してみます。
古神道で手放すことが重要である証拠
証拠というのも変ですが、手放すことが極めて重要な役割を担う場面が、古事記の有名な話の中に出てきます。
それは、黄泉の国から帰ったイザナギノミコトが川で禊ぎをして、多くの神が生まれる場面です。
以下のように、手放すものや行為によって、不要なものがそぎ落とされ、関わりのある神が生まれている様子がわかると思います。
(行為・手放したもの)ー(生まれた神)ー(意味すること)
<1>身体の禊ぎによって、何もないまっさらで素直な自分に返る
① 杖を突き立てる ー 衝立船戸神 ー 長い迷いの旅を終えて終点に来たことを象徴
② 帯を解く ー 道之長乳歯神ー旅を終えて帯を解き、心から安心されたことを象徴
③ 裳をとる(袴を脱ぐ) ー 時置神 ー 今迷いの時間がストップしたことを象徴
④ 衣を脱ぐ ー 和豆良比能宇斯能神 ー 裸になり、わずらわしいものを脱ぎ捨てられた
⑤ 褌をとる ー 道俣神 ー 二股に分かれるという二者択一の迷いを捨てられた
⑥ 冠をとる ー 飽咋之宇斯能神 ー それまでの地位や名誉や功績をいっさい捨てられた
⑦ 手纏(腕飾り)を捨てる ー 奥疎神・辺疎神 ー わが腕にすがる者たち、つまり部下のすべてを捨てられた
⑧ 身を滌ぐ ー 八十禍津日神、大禍津日神 ー ケガレそのものの神
⑨ その禍を直すため ー 神直毘神、大直毘神、伊豆能売神
⑩ 水底・水中・水上に身を滌ぐ ー 底津綿津見神・底筒男命、中津綿津見神・中筒男命、上津綿津見神・上筒男命 ー ⑨・⑩祓戸の大神精神的迷いに決着をつけ、身辺や環境や人間関係のもつれを整理し、素裸の、まっさらな自分に返るということが、禊ぎの思想
(11) 天照大神、月夜見尊、素盞嗚尊 ー 順に、霊的生産、精神的生産、身体的生産を象徴(参考:「神道の神秘」山蔭基央)
このように、肉体や精神から余計なものをそぎ落とし、清らかなまっさらの状態になってはじめて、アマテラス、ツクヨミ、スサノオという超重要な神々(三貴神)が生まれるのです。
禊ぎを単なる水浴びと思っていた人いませんか?(笑)
実は私もそうでして、「黄泉の穢れを落とすために水浴びした」というだけの認識でした。
でも、そうではなく、これだけの深い、精神的、霊的な意味が込められているのです。
神道で禊ぎにより穢れを祓い清めてから祀りにのぞむのはこのためです。
よいもの、素晴らしいものを生み出す、創造するという働きの前に、手放しが欠かせないことが腑に落ちる話だと思います。
日本人はこのようにして大切なことをいちいち事細かに説明しないで(言挙げしない)、物語に象徴させたり、実際にやってみて感じることを通じて伝えてきたのです。
日本を素晴らしい国にした古神道の考え方
それでは、古神道の考え方とは実際にどのようなもので、どういった点が日本を素晴らしい国にするのに役に立ってきたのでしょうか。
古神道は日本人の生き方のベース
古神道では、自然すべてに神、すなわち、森羅万象を生み出す原理(むすびの力)を見て、その一部である人間もまた神の子であると考えます。
自然を畏敬し、調和し共鳴することで神に近づくことを目指すのです。それは本来の自分に還ることにほかなりません。
そしてそれは、日常生活、および、祭りなど年中行事を通して暮らしの中で実践するものでした。
神道は宗教ではないという見方がありますが、宗教というより暮らし方、実生活に密着した人間本来の生き方を実践する上での深い叡智という表現がぴったりきます。
自然の生命力=生命の根源の働きが如実にあるということを、感受性豊かな心で悟って、自然の中の生気、これを神として捉えて心を込めて拝むということです。
美しい自然の景色に神々しさやありがたさを感じ、自然に手を合わせて感謝が溢れる、日本人なら誰しもそういう経験があるのではないでしょうか。
その中心をなすのが、禊や祓いと祭りです。
生きていれば自然についてしまう穢れを祓ってから、祭りを通じて神と同調します。
つまり、余計なものを手放して、神とのつながりを強め、神に還るのが古神道が説く、人間としてあるべき暮らし方です。
これらは、
頭で考えて言葉にせずに実際に行為してみて感性で感じる(言挙げしない)、
宇宙の原理をシンプルな相似象で象徴とする(鳥居、玉串、しめ縄など)、
言葉による正しさよりもシンプルな美しさを重んじる、
などの特徴につながっていきます。
そして、私がさらに重要と考える特徴があります。それを次の項で説明します。
古神道が産み育んだ“和の心”
和の心と聞くと、聖徳太子の十七条憲法の第一条「和をもって貴しとなす」を思い出す方も多いでしょう。
一番大事だから真っ先に書いてあるのですが、私は、「人と仲良くすることは大事だよ」ぐらいの意味に捉えていました。
でも、実際にはこれから述べるとおり、もっと深い意味があるのです。
まず、とても大事なこととして、“和の心”のベースには、自然すべてに神を見るという古神道の基本的な考え方があることを挙げておきます。
自然のなかにはすべてがあります。
生も死も、健康も病気も、若々しさも老いも、光も闇も、日なたも日影も、美しさも醜さも、創造も破壊も、成長も衰退も、、、
宇宙の森羅万象にはすべてが含まれますよね。
で、古神道ではこれらすべてをあるものとして、そのまま受け入れるのです。
包容力と寛容さ
そこから、和の心の一つ性質である、包容力や寛容さが生まれます。
これは「人とは仲良くしましょう」という代表的なイメージと割合近いかもしれません。
でも、それだけではないのです。
死を例にとると、古神道では死を穢れとして忌み嫌っています。そうですよね。
でも、それは死を憎み、できることなら、死を撲滅したいと考えることとは違います。
もし、死がなかったらどうでしょう?
誰も死なないとしたらたいへんですよ。
もし生まれるものがあるなら、宇宙はパンクしてしまうでしょう。
あるいは、生まれるものがないなら、停滞して思い切つまらない場所になるでしょう。
また、腐敗の負のエネルギーも穢れとして遠ざけますが、死体が腐らなかったらこれまたたいへんなことになりますね。
実は、上の一文の中に答えらしきものがあります。
それは、「遠ざける」ということです。
穢れは生きること、生活することを脅かすから遠ざけているのです。
正しい場所に置かれたとき、腐敗も全体の循環の中でなくてはならない自然の働きであることが一目瞭然です。
他のものもなんでも一緒です。
忌み嫌うとは、否定して憎んで存在を消し去ろうとすることではなく、ここにあるとよくないものに退いてもらうといった程度の意味なのです。
土ぼこりも家の中にあると不都合ですが、掃き出して庭の土と一緒になれば、なんの不都合もありません。
家の中はチリやホコリがなく清浄に、庭は庭としてあるべき姿に、というのが神道的な処し方です。
異なる考え方も否定したり排除しません。
受け入れて良い点を活かし、こちらからも影響を与えて感化していきます。
1500年前に仏教が伝来した時がそうでした。
一旦は仏教の下に付くような柔軟性を見せつつ、その実、神道が日本の精神的支柱であることは揺るぎませんでした。
人類にとって宗教対立は最悪の悲劇をもたらす厄介なものですが、神道はそれを越えていける大きな可能性を秘めていると思います。
陰陽を超えたむすびの精神
いうまでもなく陰陽は古代中国の「易経」にみられる考え方ですが、古神道における物事の捉え方を知る上で有効です。
以下では、古代の日本が陰陽についてどのように考えていたかを述べたいのですが、その前に陰陽とはなんでしょうか。
まずは陰と陽について、具体例を見て感覚をつかんでもらうのがわかりやすいかもしれません。
収縮 ー 膨張
融合、同化、集合、含蓄 ー 分裂、分離、拡散、発展
下降 ー 上昇
暗い ー 明るい
湿潤 ー 乾燥
女性 ー 男性
静 ー 動
死 ー 生
柔軟 ー 堅硬
柔 ー 剛
沈滞 ー 活発
消極的 ー 積極的
防御的 ー 攻撃的
心理的、精神的 ー 物理的、物質的、社会的
下、後、左 ー 上、前、右
裏 ー 表
月 ー 太陽
雨 ー 晴
地 ー 天
偶数 ー 奇数
精神 ー 肉体
負ー ー 正+
腹 ー 背
抑制 ー 興奮
下部 ー 上部
低い ー 高い
闇 ー 光
凶荒 ー 豊穣 (収穫)
曲線 ー 直線
ふわふわ ー つるっ
空間(背景) ー 時間(区切り、前面)
上昇性 ー 下降性(太陽が上から下に作用)
遠心力 ー 求心力
外部、周辺 ー 内部、中心 (原子モデル)
外側 ー 内側
いかがでしょうか。
陰陽と聞いて思い浮かぶイメージどおりのものも割とあると思います。たとえば、以下のようなものです。
死 ー 生
消極的 ー 積極的
暗い ー 明るい
沈滞 ー 活発
裏 ー 表
雨 ー 晴
凶荒 ー 豊穣 (収穫)
闇 ー 光
負 ー 正
そして、陰よりも陽の方がいいイメージはないでしょうか。そこからもわかるように、現代社会は陰よりも陽に価値を置く社会です。
しかし、前項で死を例にして述べたように陰と陽は、どちらがよりよいわけでも、価値があるわけでもありません。
どちらか一方だけでは成り立たないし、どちらもなくてはならないものです。
古代の日本人はこの相反する方向の二つの働きが合わされることで新しいものを生み出す働きを特に大切にしました。
それが、「むすび」の働きです。
「むすび」は「むすひ」ともいい、産霊、産巣日などと書きます。
むす(産)は、苔むすなどというとおり、自然に生まれるという意味、ひ(霊)は神の御霊を意味します。
万物は「むすひ」の働きによって生じるとされます。
わかりやすところでは、男女の結びつきにより新しい生命が生まれるのも同じ働きです。
そして、その結びつき、つながりは、人と人にとどまらず、人と自然、人と神との結びつきをも含んでいます。
神とつながることで、神の子である人は、むすびの力によって、本来の自分である神に還ることができると、考えられたのです。
このように、古神道における陰陽の考え方とは、陰陽のどちらも生かして、それらを結ぶことで、神に還るという、「陰陽を超えたむすびの精神」というべきものだったのです。
現代社会の問題点とその解決
これまで述べたように、古神道の思想は陰陽を超えたものではあり、現代社会の問題とその解決方法を考える上で非常に役に立ちます。
先ほど現代社会は陽の原理が優位と述べましたが、それは世界の主流を占める西洋的価値観についての話です。
先に挙げた陰陽の要素では、以下のようなものが参考になるでしょう。
心理的、精神的 ー 物理的、物質的、社会的
精神 ー 肉体
目に見えるもの、物質的なものに価値を置き、その手法は分解して分析して理解するというものです。
人間の能力でいえば、徳よりも才を重視します。
西洋的価値観のもとで、科学技術や物質文明が発展するのはこのためです。
しかし、行き過ぎると、個を主張するあまり、人は孤立し、バラバラになり、思いやりを欠いた殺伐とした世の中になります。
一方で、東洋は逆に陰の原理を重んじる社会です。
精神的で、才より徳を重んじ、見えないものやお互いとの共感性が高く、大いなる一つに融合するような性質です。
短所としては、発展性に乏しく、なんでもありで惰弱に流れて気力に欠け、ともすれば停滞しやすいことがあります。
一長一短あるわけですが、西洋文明中心の現代社会の問題を解決するために、単に東洋的な生活には戻れないことは明らかです。
その解決にあっては、陰陽の相克を超える思想、つまり、和の心でなくては、原理からいって不可能なのです。
これは個人のレベルにおいても同様です。
個人のレベルでも、人と人とのつながりが希薄になり、寛容さが失われてしまった現代社会において、生きづらさはMAXの状況です。
具体的には少子高齢化、児童虐待、経済的事情による晩婚・非婚、就職難による引きこもり、孤独死など、一見豊かな社会の裏に透けて見える、社会の矛盾の帰結点として風景は、社会の崩壊を予感させるものとして薄ら寒いものがあります。
目に見えるもの優先、結果主義、才能重視、利己主義の下で傷ついた心を救済するには、単に精神的な目に見えないものに立ち返ろうとするだけでは不十分です。
得てして従来の価値観と対立したまま、引きこもり生活に逃げ込むことになるでしょう。
単にバランスを取る、つまり、ほどほどに妥協して調整するという一時の間に合わせではどににもならないのです。
一段高所に立って階層において、創造の力を発揮するにはどうしても、陰陽の対立を超える必要があります。
それが、不要なものを手放して、本質に立ち返り、清らかに明るくまっすぐに生きるという和の精神に基づく生き方なのです。
まとめ
以上述べたように手放す生き方は、古神道に基づくものです。
その考え方は、陰陽を超える「むすび」の力の活用、争わない寛容さ、包容力といった特長を備える独特のものでした。
現代社会は、陰陽のうち陽の原理の偏重、科学技術のバランスを欠いた発展や人間を才能や能力など一面で評価する仕組みにより、破綻の危機に瀕しています。
個人においても、同様の陽原理の偏重によって壊れていく社会で多くの人が生きる苦しみの中にいます。
このような中にあって、手放す生き方への回帰こそ、従来にない新しい方向性を切り開くものではないかと考えています。
以上