令和のサトリのミチを歩くための指針の二つ目、何かを「感じる力(感受性)」は、近代文明のもとではずっと「考える力(理性)」の下に置かれてきました。
最近でこそ、その大切さが少しは見直されてきましたが、そういう人も含め、ほぼすべての人が「感じる力」の真の意味、重要性を理解していません。
なぜそう言えるかというと、つい最近まで私自身がそうだったからです(笑)。
日本の宝と言ってもいいくらい大切なことを、残念なことに私たちはすっかり忘れてしまっていたのです。
この記事では、その大切な宝について説明し、「感じる力」の高め方についてまとめています。
1.「感じる力」を高める必要性とは
宝の説明に入るあたり、「感じる力」を高める必要性について、「令和のサトリ」第一の指針である「自然さ」との関係から見ていきます。
では、人間本来の「自然さ」とは何でしょう。
地球上の人間以外の動物や植物を見回せば、よりよく生命をまっとうすべく、天然の秩序に則って生きるのが自然な姿です。
もちろん人間も地球の生命の一員であり、例外ではありません。
加えて、人間は動物にはない大きな脳を持っているので、優れた知性や判断力を育てることも生きる営みの一部です。
ただし、「生命をよりよく生かす」という大前提を守った上でという条件が付きます。
ところが、西洋文明の価値観の下、人類は目に見えるものに心を奪われ、ココロを伴わない、アタマだけの人間都合の思考を野放図に拡大しました。
その結果、人間は「自然さ」とは程遠い存在になり果てました。
それが現在の人類の苦しみ、悲しみを、果ては阿鼻叫喚の地獄を生み出していると言っても過言ではないでしょう。
地球圏のすべての生物の安穏、何より人間自身の生存のために、一刻も早く人間が「自然さ」を取り戻すことが急がれます。
「自然さ」を取り戻すために欠かせないものこそ、「感じる力」なのです。
2.「感じる力」の本当の意味
冒頭述べたように、ほぼすべての人が理解していない「感じる力」の本当の意味。
その重要さはどれだけ強調してもしすぎることはないので、よく理解していただければと思います。
その知恵は、数万年前の日本に存在したカタカムナ文明から伝わったものです。
カタカムナの人々は、生命や物質の成り立ちを目に見えない世界も含めた物理のサトリ(知)として解明していたのです。
そのサトリによると、「感じる力(感受性)はまさに生命力そのもの」でした。
生命力とは、宇宙にあまねく存在し、すべての生命をよりよく生かしている源「カム」からもたらされます。
カムは、老荘思想の道教でいう道(タオ)も近いと言われます。
そして、彼らが感じた、カムのエネルギーが動物の生命を通じて現実界に現れる仕組みは以下の通りです。
②瞬時に、生命力が持つ「よりよく生きるという方向性」へと「自然さ」が働き、場に応じたよりよい判断(ヒラメキ)が生まれる
③その判断に基づいた行動により現象化する
「感受して判断する(感受→判断)」という流れが非常に大切で、感受しないと生命力がカムから流入せず、何の動きも生じません。
「感じる力」がふんだんにあると、「自然さ」がよりスムーズに働くという関係です。
人間以外の動物はみなそうやって当たり前に生きています。
たとえば、ライオンは満腹の時は獲物となる動物がそばを通っても見向きもしません。
動物を見た(感受)瞬間にライオンに流れるこむカムの生命力が、よりよく生きる方向として何もしないという判断を下します。
人間だけが、ちゃんと感じないで、生命の方向性に逆らって好き勝手に思考を展開し、判断するからおかしくなっています。
上記の例だと、人間は満腹でも好物だからとか食べられる機会にとかアタマで考えては、欲張って食べすぎます。そして、肥満になったり健康を損ねたりして、生命を害することをやっています。
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カタカムナの物理(サトリ)は、のちの古神道(仏教伝来、神社成立以前の神道)にも受け継がれました。
カタカムナ人は、感受性を左回りの渦、判断力を右回りの渦と感じ取り、それが重ね合わさることにより新しい創造がなされると解き明かしました。
鳥居のカタチはこの現象を相似象として表しており、古事記のイザナギ、イザナミの国産み神話にも同じ仕組みのエピソードが見受けられます。
古神道では、自然が教師であり、自然を敬い、自然すべてに神を見、神へと還る生き方を惟神(かんながら)の道としました。
教義も経典もない古神道が人々の生きる指針であったのは、各々がいちいち言葉にする必要がないほど高い感受性(感じるチカラ)を持っていたからこそです。
3.「感じる力」を失ったワケ
それほど重要な感受性を、なぜ日本人は失ってしまったのでしょう。
時代を経るにつれて徐々に劣化が進んだようですが、それでも平和が続いた江戸時代までは、訪れた西洋人が驚くほど人々は幸せそうに暮らしていました。
決定的だったのは、明治維新による西洋近代化、そして敗戦による米国のGHQによる伝統の破壊です。
それらをキッカケに、日本人自身が、目に見えるものだけ、感性より理性、感覚・感情より思考、ココロよりアタマ、徳より才能を重視する価値観の西洋文明を取り入れすぎてしまったためです。
そこでは、表に出ること、目立つこと、自分が正しいと主張すること、まずは自分の得になるように振る舞うこと、それがよしとされています。
他人を思いやったり、互いに助け合ったりという、繊細な感性に支えられた日本のやさしさが、平成の時代に急速に失われていったことは思い当たる人が多いでしょう。
戦後の日本的伝統の破壊が、世代交代のよる時間差で効果を現してきた結果です。
そんな世の中で繊細な感受性が生き残るのはむずかしいのは、容易に想像できます。
特に、江戸末期は西洋人をして「子供の天国」とまで呼ばれるほど、子供を社会全体で大切に育てていた日本ですが、明治以来の西洋式の教育が子供時代から人の感受性を殺しました。
効率優先のギスギスした社会で、欠点を矯正し、正解を詰め込む教育で、ありのままの自分でいることを否定され、多くの子供の心は大きな傷(トラウマ)を負うことになりました。
いろいろ感じてしまうと心が痛んで耐えられないので、感受性を封印するしかないのです。
4.「感じる力」を取り戻す方法
しかし、実は感じる力がなくなってしまったわけではありません。
使わないので神経回路に電流が流れなくなり、錆び付いたような状態になっているのです。
これを元に戻すには、動物が日々行っているように、感覚情報をきちんと脳に入れ、生命力を受け取って判断するという行為を繰り返し行います。
人間も赤ん坊の時には、みんながやってきたことです。。
見慣れないものに出会った赤ちゃんが、対象をまじまじと見つめ、全身を使って感受しようとするのを見たことがあると思います。
このように感覚をしっかり働かせて感受し、判断ができる状態を昔の人は「身(ミ)を入れる」と言っていました。
私も、子供の頃におばあちゃんや親から、折に触れて言われたのを覚えていますが、最近ではめっきり聞かなくなりました(大学生の娘はこの言葉を知りませんでした)。
具体的に「身(ミ)を入れる」とは、落ち着いて、ていねいに、ゆっくりと、無心で、集中して、感じながら、対象に好意をもって行うといった意味です。
この「身(ミ)」は、目に見えない極めて小さい粒子を意味する<ミ>というカタカムナの物理用語に由来します。
おばあちゃんの知恵的な単なる処世訓のように受け取りがちですが、実は物理現象であり、古代から伝わった日本人の知恵の結晶だったわけです(驚きではないでしょうか)。
スピリチュアルの「今ここ」や、「マインドフル」という状態も、同じことを言っています。
ただ、理屈はわからないけど何となく役に立つ程度の理解だと、処世訓の域を出ません。
物理現象として理解し、実際に実感することが、確信のレベルに至る上ではとても大切だったのです。
カムからの生命力のウツシについて、カタカムナの合氣術として研究している方が見えます。
私はその方にお会いし、実際に体験してみましたが、筋力ではない、生命力(カム)の強力な力を身をもって実感することができました。
とにかく、「ミを入れ」て感受、判断を繰り返すことで、感受性を高めることができるのです。
こうした取り組みは一人でやるより仲間とやる方が楽しく続くので、手放す会のコミュニティでも実践していきたいと思います。
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ここからは早く現実を変えたい方向けの内容です。有料サービスの案内になりますことをご了承願います。
興味のない方は、ここで読むのをやめてもらってもかまいません。ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
5. いち早く現実を変えたいなら
さて、上述の「ミを入れる」取り組みは、地道に繰り返すことで必ず成果が上がります。
ただし、人によって感受性の閉じ方の違い、現状どれほど「自然さ」を持っているかによって、とても個人差が大きくなります。
個人的には、10年、20年どころか、一生かけてもやる価値があると思います。
人間である前に一個の生命として、生きているかぎり一番大切なことだからです。
とはいえ、昔と違って現状の環境はとても過酷であることもたしかです。
心の傷(トラウマ)がひどくて感受性を閉じ切っている人は、取り組みが容易ではないでしょう。
また、生きていくうえで現実がつらすぎる場合、早く効果がほしいでしょう。
その場合は、トラウマを解消するセッション(エネルギーヒーリング)をお勧めします。
独力や他の方法に比べても断然効果が早く確実であることはたしかです。
なぜなら、感じる力を高めることを邪魔するトラウマ(心の傷)に対して、エネルギー的にダイレクトに働きかけて痛みなく改善できるためです。
と言う図式です。
他の方法だと、こうはいきません。傷が痛まないよう、搦め手から長期間にわたり働きかける必要があります。
ただ、正直に言いますが、ヒーリングであっても、誰でもうまくいくかというと、そうではありません。
自分を縛っているものの大元はあくまで自分であり、人生に対してどんな姿勢でいるかで大きく左右されるからです。
そこで、セッションをお勧めする人しない人で言うと、以下のとおりです。
- もう人生いい加減なんとかしたいという人、お勧めです(自分で切り開く覚悟があるから)
- どうしていいかわからない、言われることは素直に真剣にやってみようという人、お勧めです(手放し、委ねる姿勢は人生を変える力です)
- 他人任せで楽したい、何もしたくない人、お勧めしません(人生を生きるのは本人ですよ)
- 自分はどうせダメという人、お勧めしません(その考えには反対しません、あなたが思う通りになります)
ここまでいろいろ述べてきたわけですが、結局のところ、言葉での理解自体にはあまり意味はありません。
セッションに限った話ではなく、人生は体験し、自分の身で感じとるものだからです。
物事ははっきりわかることもあれば、そうでないこともあります。
けれど、自分で感じようとしなければ何も始まりません。
ここまで読んで何かを感じている、だけど今一つよくわからない。
心の奥であなたに囁く声を無視しないでほしいと思います。
声の意味をたしかめたい人は、試しに体験セッションを受けてみてください。
以上