新年といえば初詣ですが、新しい年の初めに神仏に祈りを捧げる風習は、やはり素晴らしいですね。
その初詣ですが、せっかくお参りしても、効果が薄いどころか、逆効果になることもあるようです。
幸せを願ってお参りしているのに、それではあまりにも残念です。そこで、神様が喜ぶ「正しい」お祈りの仕方について考えてみました。
目 次
1.お願いはよくない?
よく言われるのが、お参りをした時に、願い事をしてはいけない、感謝だけを伝えなさいというもの。
それでは、なぜ願い事をしてはいけないのでしょうか。
(1)願い事は神様への不満
それは願い事をすることが、「欲しいものが手元にない」、つまり、「現状では嫌だ」と言っていることになるからです。
いくら神仏が波動の高い存在とはいえ、何10万、何100万という人が押しかけてきて、これが不満だからこうしてくれとか、あれが気に入らないからどうとか、言われ続けたらどうでしょう。
さすがになんの影響もないというのは考えにくいのではないでしょうか。
また、不満由来の欲求のエネルギーは非常に粗々しくもあります。バーゲンセールの殺伐とした雰囲気は、好きな人には申し訳ないですが、私はかなり遠慮したい方です。
いくら神仏のような存在であっても、そのような波動に晒され続けると、引っ張られて俗に言う、疲れてしまうようなことが起き得ます。
(2)いつまでも「願う」状態が続く
次に、潜在意識が現実を創るという視点からも願い事をすることはかなり微妙です。願うということは、今は「ない」ということが前提になるからです。
これは強く願えば願うほど、「ない」を潜在意識に落とし込んでいるようなもの。潜在意識のパラドックスと言われるものですね。
その思いが望むものを遠ざけ、いつまでも「ないから欲しい」という現実を創り続けてしまいやすくなります。
「ある」を前提に、たとえばそうですね、クロークに預けてある自分の荷物の受け取りをオーダーするぐらいの軽さでお願いできればいいかもしれません。
が、しかし、そんな人は、大混雑の中、わざわざ足を運んで神様にお願いしに行かないという矛盾に行き当たります。
本当のことを言えば、家でもどこからでも、自分がいる場所で快適に過ごしながら、宇宙にお願いすればいいんですから。
(3)神社仏閣はエネルギーがよいという幻想
さらに、自分は願い事をしなくても、お正月特に三賀日にあたりの神社仏閣は、上記のように多くの人が願い事をし、つまり、不満をぶつけ、エネルギーが下がった状態になります。
その神社仏閣にお参りして、果たしてどれだけの意味があるのだろうという問題もあります。
近年ブームのパワースポットなどと同じ問題があります。パワースポットと言われる場所も、たくさんの人が押しかけることで、エネルギーが失われたり、荒くなったりします。
霊的なエレルギーも、熱などと同じ性質を持っていて、温度の高いものと低いものをくっつけておくと、熱が移動するような現象が生じます。
ということは、エネルギー状態が、自分<パワースポット であれば、パワースポットからエネルギーをもらったり、精妙な状態になれたりします。
しかし、逆に、パワースポット<自分 の状態であれば、逆効果ということになってしまうのです。
自分の状態が整っている人ほど、雑踏のような場所に身を置くことを不快に感じたり、願い事をする意味を疑問に思ったりするかもしれません。本当のところは、そのとおりなのです。
自分の感覚を信頼して、ちょっとどうかなーと思う時は、三が日を避けたり、早朝に参拝するなどして、エネルギー状態を考慮するのがよいかもしれません。
2.感謝する意味とは
(1)日本に暮らすことへの感謝
お参りをしても願いを言わず、神仏に「感謝」するのは、「ある」に意識を向ける発想です。
日本という平和で豊かな国に生まれて、一年なんだかんだありつつも元気で過ごし、正月を祝い、初詣に行ける。
考えてみれば、これだけで本当にすばらしく、有り難いことです。
地球を作った創造主は、世界のどんな場所に対しても平等かというと、どうもそうではないようです。
実際に世界には、神に見捨てられた土地というべき場所もあるようです。
しかし、この日本はそうではありません。
私たちが住んでいるこの日本という国こそ、そこに暮らす人々が心を磨き、成長させるための最高の環境が整った特別な場所なのです。
そんな環境を保ってくださっている神様に対して、お礼の言葉しか浮かばないというのが本来の態度であるように思います。
(2)成長のための最善の環境への感謝
しかも、今与えられている環境は、自分にとって最も成長できるベストの環境というのが、本質から見た真実です。
口うるさい妻(夫)も、イヤミな上司も、ワガママなお客も、
にもかかわらず、スズメの涙ほどの給料も、街ゆく非常識な若者も、国を傾ける無能な政治家も
みんなそうです。自分が成長するために不可欠な道具立です。
お釈迦様はこのことを、「すべてがあなたにちょうどいい」とおっしゃいました。
自分が魂を磨くのに最適の素晴らしい環境が「ある」と思えるかどうか。
これは本当に、本人の意識の広がり、ものの見方次第なんですね。
そのような見方ができることが、すなわち心の成長であるわけです。
もちろん、自分なりに願いを持って、よりよくなろうと努力することを否定するものではありません。
達成した時の喜びや興奮の体験はこの世で肉体を持つことの醍醐味と言ってもよいでしょう。
しかし、その反面、達成による目標の喪失感や燃え尽きのようなデメリットもあります。
それを避けるためには、常に新しい目標に向かって自分を駆り立て続けなければなりません。
疲弊してしまったり、そもそもこんなことを続けて意味があるのかと、むなしくなることもあるでしょう。
良い悪いではなく、要するにそれがやりたいかどうか、ということです。
3.「ある」前提をさらに進める
ここまで、「ない」前提での願い事より、「ある」前提で感謝しましょうと述べてきました。
そうすると、「ある」前提からスタートして、さらに先に進むこともできます。
先に述べたように、自分が望むやりたいことは自分で叶えられます。
どうせせっかく初詣に行くのなら、願い事疲れの神様仏様を元気付けるというのは、どうでしょうか。
スタートは「ある」ことを意識する地点からです。すでに満たされていて今に感謝している状態です。
そこから、「こうなったらさらに幸せかもー」という未来をイメージします。それが自分の望みとなります。
それを神様に頼む必要はありませんね。クロークに預けてあるコートを、係りの人に札を渡して持ってきてもらうだけですから。
だから、「こうしてください」ではなく「こうしていきます」と神前で報告、いえ、宣言する感じですね。
それはもう、喜びと感謝のエネルギーに溢れますよね。
こんなに楽しい望みを実現できる環境を神様が用意してくださってるんですから。
目の前でそんなふうに言われたら、聞いてる方だって、それは元気になるに違いありません。
こうすることで潜在意識的にも、「自分はただ神仏に頼るばかりでなく、神仏を元気付けて差し上げられる存在なんだ」
ということで、自己価値、自己肯定感が高まるという結果をもたらします。
そうするとますます望みが叶いやすくなるという好循環の流れに乗ることができるのです。
4.まとめ
お詣りには、願い事ではなく感謝を、ということの理由、どのようにするとよいのかについて見てきました。
来年の初詣は、いつもお世話になっている神様を盛り上げるつもりで自分が望むことを宣言してみるのはいかがでしょうか。
以上