悟りの窓

魂とつながる日本的自己成長の道

「死にたい」と思ってもいい。感じる力にフタしない

約 9 分
「死にたい」と思ってもいい。感じる力にフタしない

生きるのがつらいと思っているあなたへ

この文章には、「『生きるのが辛い』そう思えるあなたは大丈夫」という記事からたどり着いた人が多いと思います。

読んでいない人のためポイントを箇条書きしておきます。

  • 生きるのが辛いと思っていい
  • ふとした一瞬で切り替わることもある
  • 私たちを生かしている大きな存在に意識を向けよう

といった内容です。

しかし、この社会には「生きるのが辛いと思う」ことよりもさらに大きなタブーが存在します。

それが「死にたいと思うこと」です。

けれど、生きるのが辛かったら、「生きていたくない」、「死んだ方がマシ」と思考が流れるのはごく普通のことだと私は思います。

「死にたいと思うこと」は決してタブーなんかではありません。

むしろ、リアルな本音をしっかりと受け止めることこそ、より前向きな生き方に近づく道であることをお伝えします。

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1.「死にたい」と思ってはいけない理由

そもそも、なぜ死にたいと思ってはいけないのでしょうか。

その理由の一つとして、今の社会では、死そのものがタブー視されていることがあります。

人がいつか死ぬのは当たり前ですが、それを考えると不安で仕方がなくなるのかもしれません。

死を忘れることでかろうじて心の平衡を保っているのが現代社会なのです。

今の政府を見ても、「なんであれ都合の悪いことには蓋をする」のが、基本方針となっている感があります。

死に向き合うと、嫌でも永遠で生きられるわけではないことをリアルに感じさせられます。

すると自然に、「限りある生をどう生きるのか」という方向に考えが向かうでしょう。

そうなることを不都合に感じる人がいるのはたしかなようです。

陰謀論を展開するつもりはありませんが、一部の施政者は、明らかに人々が深くものを考えることを歓迎しないようです。

また、儲けるためには、人々が束の間の消費にうつつを抜かす社会を好ましいと考える企業経営者もいそうです。

そんなこともあり、戦後の平和のなかで、死は徹底的に人々の前から隠されました。

核家族化、病院での死が一般的となったこと、葬式さえ遺体をきれいに飾ることで、リアルな死を感じる機会はほとんどありません。

そうして、死について語ることはほとんどタブーとなりました。

ましてや、自分から死にたいなど、見た目は平穏な社会に爆弾を投げ込むようなものです。

別の角度では、せっかくの命を粗末にするなんてトンデモナイというのも、よくある理由付けです。

なるほど正論ですね。

世の中には生きたくても生きられない人がいるという説教めいた主張が、これに続きます。

「あなたが捨てようとしている明日は、誰かが生きたくても生きられなかった明日なんです」

必ずしも間違ってはいませんし、感動的な言葉として伝えられることもあるようです。

でも、辛さの真っ只中にいる本人にしたら、他人のことなどどうでもいいことです。

反論が許されない正論で罪悪感を煽られたら、ますます辛くなるだけしょう。

2.「死にたい」と思っていい

このように「死にたいと思ってはいけない」というのは、世の中のいわば常識です。

けれど、本当にそうでしょうか。

上で述べたように、生きるのが辛かったら、「死んだ方がマシ」という思いが出てくるのは、ある意味自然なことです。

そこまで本気でなかったとしても、フッとそんなふうに思うことって誰しもあるのではないでしょうか。

少なくとも過去の私はそうだったので、そういうものだと思っているのですが、どうなのでしょうね。

とはいえ、周りの人には安易には尋ねられません。

身近な人に「死にたい」と思うなんて漏らしたら、驚かれて本気で心配されてしまいます。

甘えているからそんな思いが出てくるんだなどと、自分を責めてしまうこともありがちです。

そうすると、一人で悩んで自分を責める悪循環に陥りやすくなります。

ですので、一度この「死にたいと思ってはいけない」という常識を疑ってみる必要があるのです。

生きていたくないほど辛いのに、常識や建前を気にしてどうなるというのでしょうか。

建前で生きている限り、本音の自分にはつながれません。

本音の思いを抑圧してエネルギーを貯めこむと、いつか臨界点を超えて爆発してしまいます。

突発的な行動に出るかもしれず、それこそ危険です。

心のうちに現にあるのですから、決してないことにしないことです。

むしろ、本気ではない芽のうちにきちんと感じた方が害が少ないといえます。

だから、私は「生きるのが辛いなら、死にたいと思ってもいい」と考えるのです。

3.死ぬことの不都合

自分の「死にたい」という気持ちを認められたら、真正面から死ぬことについて考えることができます。

つまり、死を選ぶべきか否か、一度ちゃんと考えてみる、ということです。

まず、死んで得られるよいこと、とはなんでしょう?

何と言っても、今の苦しみから逃れられることでしょう。

生物として一番避けたいはずの死を選びたくなるほどの苦しみですから、大きなメリットです。

その一方、死ぬとまずいことは何でしょうか?

残された人に迷惑がかかることを懸念する人は、多いかもしれません。

この点から言うと、人に迷惑をかけないことはまず不可能です。

残された人は、大切な人を失った悲しみに加えて、止められなかった自分を責め続けるといいます。

悲しんでくれる人はいないという人も、自分がそう思っているだけかもしれません。

悩んでいるときは視野が狭くなっているので、心配してくれている人の存在に気づきにくいものです。

よしんば本当にそうだったとしても、遺体が残るので、その処理をする誰かに迷惑をかけます。

そうした「後始末」のうちでも突出する状況に関わるのが、特殊清掃という仕事です。

その壮絶な仕事の内容も、本などで知ってみるといいかもしれません。

死というものの一つの実相を感じることができます。

********

ならば、天涯孤独で、遺体が発見されない方法を選んだ場合はどうでしょう。

先程、死を選ぶメリットとして、「今の苦しみから逃れられる」と書きました。

たしかに、「今の」苦しみからは逃れられるのはたしかです。

しかし、その後のことは誰にもわかりません。

現代社会では、死んだあとは存在が無になるとなんとなく考える人が少なくないようです。

その根拠は、たぶん死後の世界が科学的に証明されていないからかもしれません。

けれど、電気だって科学で証明される前から存在していたわけです。

私はというと、個人的に、死後の世界はあると考えています。

その理由は、今自分が生きている不思議を思うとき、目には見えない本質の世界の存在を直感するからです。

肉体の死を超えて存在し続ける魂と呼ばれるような本質的なものの存在です。

また、現代科学で説明がつかない事象は多いですが、死後の世界があると考えることでうまく説明がつくとも考えています。

そして、死後の世界があるとするなら、自殺した場合、死んだ後も長い時間苦しみ続けるようです。

自殺とは一種の逃げなので、自分の状態が死を跨いでそのまま続いてしまうのはうなずけます。

肉体がない状態では変化に乏しくなるので、何百年も同じように苦し見続けることになるともいいます。

そうなると、事態は今よりよほど悪化します。

真剣に悩んでいたことでも、後から振り返ればなんでもなかったという経験、誰しもあると思います。

今の深刻の悩みも、5年、10年経てばとっくに抜け出して、楽しく生きている可能性だって十分にあると思います。

けれど、死んでしまうとそうはいきません。

死後の世界があるかどうか、本当のところはわかりません。

けれど、もしあった場合、長期にわたって苦しみが続くことになり、後悔してもあとの祭りです。

もしなかった場合には、「ほらやっぱり。自分は正しかった」と思うことはできません。

きれいさっぱり無になるので、死ぬ前の苦しさよりはよくなったと思うことはできないのです。

結果がどっちでもうれしくない、と私は思います。

だから、私は「死は解決策ではない」と考えます。

4.生きると決める

死という選択肢がないなら、消去法的には、生きるしかないわけです。

でも、他に選択肢がないなら、どうせなら積極的に生きるとコミットしてみたらどうでしょう。

死を選ぶことを考えていたのですから、死んだと思えばたいていのことは大したことではありません。

まかり間違って死んでしまっても、変な話、思いどおりになったわけです。

しかも、精一杯生きて死んだ場合、死んだ後に苦しみが続くことはないようです。

自殺した場合とは状態が全く異なるので、しかるべき次のステージに行けるわけです。

これは悪い話ではありませんね。

実際は、そのぐらいの覚悟を持ってことに当たれば、たいてい自ずと道は開けるでしょう。

高名な経営コンサルタントの福島正則さんが面白いことを言っています。

「うまくいかなかったら、あらゆる手段を試せばいいんです。

でも、誰一人として、絶対にあらゆる手段を試すことはできません。

なぜなら、あらゆる手段を試す前に、どこかで必ずうまくいくからです。」

たしかにそのとおりですね。

5.どう生きたいか

生きることにコミットしたなら、次はどうすればいいでしょう。

自分が「どう生きたいのか」を徹底的に見つめて「感じる」ことです。

死線を越えてきたのですから、今さら建前や他人の価値観を生きてみても仕方ありません。

できるかどうかではなりません。

やりたいかどうかが決め手になります。

最初はうまくいかないかもしれません。

なぜなら、多くの人が成長過程で自分の「感じる力」を抑圧してしまうためです。

親や社会の求める「いい子」になるため、自分が感じていることに気づくと具合が悪いのです。

逆に反発する場合も、親や社会が強いることに反応しているだけなので、自分の本音からは切り離されます。

「感じる力」とは、自分の内面を見つめる力ですが、実は生命力を生み出す根源です。

その自分の内にある生命力を外に表現することで、人生が展開していくのです。

今の社会は、感じることを封じたまま、外に向かってあれこれ働きかけようとします。

これでは、生命が本来持っている力を活かすことができず、疲弊してしまうのは避けられないでしょう。

6.まとめ

「生きるのが辛い」という思いも、「死にたい」という思いも、出るものは仕方ありません。

「そう感じているんだね」と、まずは認めることからです。

最初に戻りましたね。

ネガティブな感情は、しっかり感じてあげることで小さくなっていきます。

自分の固有の「感じる力」を回復し、生きるチカラを取り戻してください。

そして、感じるままに、自分らしい人生を歩んでいって欲しいと思います。

あなたの未来はきっと明るい。

以上

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この記事を書いた人

祇場 駿矢(しば しゅんや)
座右の銘は「自分にとっての自分の価値は自分が決める」
自分だけの軸を己の中心に据え、自分を信じて生きることのすがすがしさを伝えています。
普段から物静かですが、悟りや自己成長のこととなると少しおしゃべりになります^^
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