
2019年5月1日、天皇陛下が即位されて、令和の時代が始まりました。
令和の典拠が初めて国書である万葉集であったことからも、日本が伝統として守ってきたさまざまな「よきもの」に多くの関心が高まっています。
この流れは決して偶然などではないと思っています。
日本が日本である由縁を取り戻し、閉塞状況にある世界において、日本がその存在価値、役割を発揮する上で欠かせない大事な段階であると考えます。
一方、個人のレベルでも、生きる理由や生きる意味を、日本固有の教えである神道(または古神道)に見出すことが有用であると思っています。
その点で言えば、我が国で長い歴史を持つ仏教ももちろん外来の教えです。
そして、仏教よりも神道の方が日本人に適していると考える理由は、遺伝的にも証明されているとおり日本人の気質は悲観的、ネガティブな傾向が強いためです。
それについては以前記事にまとめました。
本記事では、一人一人が神道的アプローチをとおして、生きる理由、生きる意味を見出す方法について考えてみました。
一人でも多くの人が自分の生きる理由を確信し、主体的に生きることにより、日本の社会が必ず変わると思います。
目 次
1.多くの人が考える「生きる理由」の色々
「生きる理由」を神道的アプローチで見つけることを考えようとしたのは、現代ほど生きる理由や意味が曖昧になっている時代はないように思ったからです。
かつては生きるために精一杯でそんな余裕はさらさらなかったかもしれません。
また、今ほど社会が複雑でなく、自分の生き方についてあまり疑問を持つ余地がなかったこともあるでしょう。
そういう意味では、現代は生きる意味を考える「ゆとり」がありながら、答えが見当たらないと言う点で悩みの多い時代でもあります。
そこで、過去人々が生きる意味についてどのように考えたのか、その概略を追ってみました。
(1)生きる理由の具体例
一人一人が考える、生きる理由、生きる意味について、一言で言ってしまえば「人それぞれ」です。
冒頭から結論を投げたような感じですが、そうではありません。
魂の来歴からして大きく違うので当たり前であり、その性質を押さえておくことは大切です。
その上で、これまで考えられた「生きる理由」をひと通り概観してみましょう。
まず、生きる理由や生きる意味について、考えもしないという人。
意識すらしない、考えても仕方ないとあきらめた、現実で手一杯など、いろんなパターンがあります。
が、いずれ向き合わされるタイミングが来るでしょう。
それが今生か来世かはわかりませんが、同じ人であっても時系列の流れにより変遷を遂げるものです。
そのタイミングにある人が考えた生きる理由には、どんなものがあるでしょう。
人それぞれというとおり、様々なものがありますが、いくつかに分類できます。
一番目は、最も崇高なもの。魂の成長のため、愛のため、社会に貢献するためなど。
仕事がこうした目的の手段になっているケースもあります。
二番目は、より現実的なもの。子孫を残すとか、幸せになるため、生きているから生きるんだというものです。
等身大の生活をフラットに見つめたとき、出てくる考えかもしれません。
三番目は刹那的なもの。一時的な快楽のためです。
その対象は様々で、セックス、美味しいものを食べる、人からちやほやされることなど。
お金のためというのも、それらを得る手段として位置付けることが多いかもしれません。
権力欲などもやや長期ですが、地位を失うと幻のように消える点で同じ類かもしれません。
四番目に消極的理由として、親が悲しむからとか、飼っている猫のためとかいう人もいいます。
自分の理由というより他者のニーズですね。
最後に、生きる理由なんてないという考え方もあります。
それでも生きているのは、死ぬことも大変そうだし、怖いし、死ぬこともできないから生きているというものです。
このようなものが代表的でしょうが、他にもあると思います。
そして、実際には、これらのどれか一つというより、いくつかが複合してその人なりの生きる理由が出来上がっているとも考えられます。
人は一枚岩の存在ではなく、崇高なる魂から安易な快を求めるエゴまで、様々な要素から成る多面的な存在だからです。
この辺りは、見ないことにしていたり全く気づいていなかったり、ほとんどの人が誤解しているところでもあります。
(2)共通する唯一つのもの
上記のように、人が生きる理由とは千差万別なのが特徴ですが、唯一つ共通点があるように思います。
それは、生きる理由を問う時、人は人生に迷っていたり、うまくいっていないと感じていたりするということです。
悩みや苦しみがある、辛さを感じていると言い換えてもいいかもしれません。
人生がうまくいっていて、充実しているとき、上で挙げたのとは違う意味で、あえて生きる理由など考えもしないのではないでしょうか。
ということは、生きる理由を問いかける目的とは、今よりもっと人生をよくしたいということなのかもしれません。
この記事を読んでくださっている方も、多かれ少なかれ生きる理由について関心をお持ちなわけですので、そういうタイミングかもしれません。
2.神道に見る生きる理由
こんなとき、仏教であれば思い通りにならないことから生まれる苦についてフォーカスし、心の働きを解明します。
その上で、苦を滅するための実践として、思いどおりにならないことを受容することや瞑想が勧められます。
もちろんそれも有効ですが、すでに多くの人がご存知と思います。
ここでご紹介したいのは神道、ないし、古神道の考え方です。
両者の違いは、6世紀ごろ仏教、儒教、景教(キリスト教の一派)など外来の宗教が伝来し、日本古来の信仰に名前をつけたのが神道です。
その後、神道は主に仏教と習合して変容していくので、それ以前の日本固有のそれを古神道と呼びます。
ですから、この記事でいう神道は、日本固有の考え方という意味で、古神道のことと思ってもらってよいでしょう。
では、神道に照らすと、人は生きる理由はどのようになるのでしょうか。
神道には、教祖も教義も経典も存在しません。
そもそも宗教と言えるかどうかさえわかりません。
ある神道関係の方は、神道について「自然を敬う心から発した、宗教というよりも大自然に融和した生活の道」と言っています。
私はこの考え方がしっくりきます。
ですから、生きる理由に関する神道としての見解というのはないのです。
以下に述べるのは、神道の実践を行えば生きる理由はこうなるにちがいないという、私個人の考えです。
その判断は読者に委ねたいと思います。
古神道は「惟神(かんながら)の道」といって、「神を思い、神になる(近づく)」生活の仕方です。
大元には、自然すべてが神である(いわゆる八百万の神)という思想があります。
私たちを生かしている自然、その背後にある生命の根源に神を見る考え方です。
ですから、自然から生まれた私たちは神の子であり、神から魂を分かち与えられた存在です。
人は神の分け御霊(みたま)という言葉を聞いたことがあるかもしれません。
また、魂とは「賜(たまわ)りし霊(ひ)」の縮まったものです。
ここから、穢れを祓うと神に還るという考え方になります。
例えると、100ワットの電球に煤がついて暗く見えても、電球自体が輝きを失ったわけでなく煤を払えば元どおり明るく輝くようなものでしょうか。
ちなみに、後世の神道では、「随神(かんながら)の道」と書いて「神に従う」という解釈もあるようです。
まぁ「従う」でもいいんですが、ユダヤ教やキリスト教のように神は絶対者というニュアンスが入るとちょっと違ってきます。
(1)自然との共感
上述の通り、古神道が尊ぶのは、神を思い、神に近づく生活の仕方です。
日本古来の四季折々の年中行事や農耕のお祭りなどにより、自然と調和し自然に感謝する生き方です。
そうするなかで、自然と一体不可分の自分、他の動植物ともに生きている自分、生かされている自分に気づいていくのだと思います。
すると、自分を生かしている大いなる存在を感知するようになります。
それは目には見えないし、証明も出来ないけれど確かにあると、理屈ではなく感覚で感じるものです。
ここまでできてはじめて、自然と調和して生きる、つまり、そうやって生きている動物や植物たちと同じレベルです。
残念ながら、自然を破壊して調和を乱している今の人類は、種の総体としてこのレベルにさえ達していません。
(2)生きることをコミットする
では、生かされていることに感謝し、自然や神に対する畏敬の念を培えたなら、その次はどうあるべきでしょうか。
人として生まれるとは、動物や植物と同じレベルではないというのは、読者の方ならお気づきかもしれません。
それは人間優位、人間中心ではなく、管理者としてより大きな役割と責任を担っているぐらいの意味です。
現状は動植物以下ですから、何をか言わんやですが。
人間として生まれた意味、そのポイントは主体性にあります。
自分がこの世に生まれた意味、使命を果たすんだと、主体的に生きることを決意し、覚悟を決めるということです。
これは人間にしかできないことです。
では、使命とは何か?それがわからないから困っていると言う方も多いでしょう。
(3)委ねて受け取る
結論から言えば、自分が使命と感じるものならなんでもいいんです。
まさか世の中に害をなすことを使命と思う人もいないでしょう(例外はあるでしょうが)。
そうして、決めたらあとは神さま、大いなる存在に委ねます。
受け取ることをきちんと意図することで、使命へと導いてもらうことができ、使命を生きる援けを得られるのです。
偶然のように思える人との出会いを通じ、見事に行くべきところへ運ばれていきます。
本気の決意が、見えない力を発動させる鍵となります。
自力で頑張ることはかえってその力の発動を妨げるので注意が必要です。
スピリチュアルや引き寄せが好きな人は、自分が信じるものに置き換えてもらってもかまいません。
ポイントを繰り返すと、すべては与えられているので受け取ると決めるだけでいいんですが、その覚悟は自分で主体的にやる必要があります。
主体的な人は自力で頑張ろうとし過ぎますし、受け身の人は決意なく受け取ろうとするので、どちらもこの力が使えないのです。
(4)使命がわからない場合
自分が使命と感じるものならなんでもいいと言いましたが、どうしても使命がわからないと前に進めないと感じることもありますよね。
かつての私がそうでしたからよくわかります。
わからないことを理由にして進むことから逃げていると当時のメンターから言われ、そうだよなーと思うほどに自己嫌悪が募ったり。。
そのような場合、外部の力を借りるのも一つの方法です。
「生命の樹コンサルテーション」もその一つ。
生命の樹は、使命の大体の方向性を示すものなので、最後はやっぱり自分が本気になるしかないんですが、使命を生きるコミットのためにそっと背中を押してくれるものだと思います。
(5)身をもって体験する
神道の考え方に則って、生きる理由を知り、よりよい人生を生きる流れを説明してきましたが、神道の真髄は言葉ではなく実践にあります。
「言挙げ」はせず(言葉で表さず)、体験を通して感得する、やればわかるといったところです。
そして、その実践は堅苦しいものなどではなく、人生を楽しむ暮らし方そのものです。
もともと私たちは神の子であり光ですから、徹底して性善説であり、非常に楽観的なのです。
毎日明るく世の中を照らしてくれる太陽、雨の恵みを受けて大地の上で、すくすくと育つ若木のように、成長していくのが私たちの生命の本質なのです。
したがって、私たちが生きているということ自体、生命を司る本質が存在することの確固とした証拠と思います。
それを感じて、よくわからないけど自分が信じるものに対して、自分を投げ出すということです。
できるところから始めて、だんだんとチャレンジを大きくしていくのが確実な方法です。
3.まとめ
今回は神道的生き方を通した生きる理由、生きる意味として、概論的なところを述べました。
ポイントは、私たちの生命は神の一部をもらったものであり、その性は善であること。
だから、自分を肯定し、楽観的にいきましょうということ。
しっかり生きる覚悟を決めたら、あとは遠慮なく大いなる存在からの援けを受け取りましょうということです。
間違いなく、私たちにはその価値があります。
その上で具体的な方法ですが、とてもシンプルなものなので、それぞれが好きにしていいんです。
でも、だからこそのむずかしさもあると思います。
そこで、今後も神道的な生き方のヒントとなるような記事を書いていきますので、興味のある方は参考にしてもらえたらと思います。
以上