ある人は、自我は無力である、神様やハイヤーセルフ、人によっては宇宙など、個を超えた大いなる存在に委ねなさいと言います。
またある人は、大いなる存在の力を借りるのは大切だけれど、自分がなにもしないではダメ。自分で努力することが必要と言います。
はて、一体どっちなんでしょう?
本稿では両方の意見とその特徴を概観したあと、今のところ、私が考えるよりよい統合案についてまとめてみました。
目 次
1.自分で努力することが必要という立場
(1)概要と特徴
最初に、後者の立場について考えてみます。現代社会では優勢な考え方と言えるでしょう。
神仏に祈るにしても、まずは自分でできる限り努力しなければという考え方です。
祈るだけ、つまり、思っているだけでは意味がない、行動してナンボということもよく言われます。
行動こそが大切というのは、ビジネス系でバリバリやっている人とも親和性が高い考え方です。
手法としては、ありたい姿、つまり、理想と、現状を比較してその差を導き、それを課題と考えて、課題解決の方法を探るのが一般的です。
解決方法が明らかになったら、それを実践する努力を積み重ねればよいというわけです。
学校の勉強から始まり、大人になって会社で仕事をするときも、基本的にはこの方法が採られています。
その結果、うまくいくこともあればいかないこともあるでしょう。
うまくいったらうれしいし、いかなかったら悔しい。
誰かと競争したり、誰かが妨害してくることもあるでしょう。
反対に、導いてくれたり、助けてくれたりする、ありがたい存在もあります。
一敗地に塗れて、捲土重来を期して臥薪嘗胆、あきらめずに研鑽を続けた末、ついには念願叶って思いを遂げる(なんだか時代がかった表現が多くなりますw)。
こう書いてくると、これって何かに似てないでしょうか?
まるで、映画や小説のストーリー、今なら、ロールプレイングなどの攻略ゲームのようです。
人は山あり谷あり紆余曲折の物語が好きなんですね。
もちろん、これはよい悪いではありません。誰もが好きに生きればいいのですから。
(2)この方法の欠点
しかし、この方法には欠点があります。
第一に、いつもうまくいくとは限りません。課題の大きさや、環境や自分の能力などの条件によって、結果が左右されるからです。
映画や演劇ならば結末が悲劇でも楽しめるかもしれませんが、自分の人生ではそうはいかないですよね。
しかも、現代の社会は複雑化、変化が激しく、これまでの解決方法が通用しない面もあります。
そのため、多くの人が解決し難い課題に悩みをかかえることになってしまっています。
第二に、自分は大きな物語のなかの登場人物の一人に過ぎません。
いくら努力して順調に進んでいるようであったとしても、思いがけいない不運が襲えばひとたまりもありません。
病気や事故、取引先の倒産、人の裏切り・・etc. 自分にはコントロールできない外部要因により、今まで積み上げてきたものを吹き飛ばされるリスクに常にさらされることになります。
ですから、本当の意味での安心はないと言っても言い過ぎではないでしょう。
第三に、勝ち負けで争った場合、勝者はたった一人であり、敗者が圧倒的多数となります。
しかも、戦いは一回ではなく、負けた人もリベンジを仕掛けてくるので、勝ち続けることは容易ではありません。
最後に立っていた人だけが勝者なんていうのは極端ですが、思うようにならないことが多く、人生に悩みは尽きないことになってしまいます。
多くの人が、人生そんなものとあきらめ、感覚を閉じて、目の前の楽しみに救いを求めて気を紛らわしている。
私にはそんなふうに見えてしまいますが、斜に見過ぎでしょうか。
最後に、なんとこのゲーム、最後は必ず負けで終わります。
どんなにお金を得ても、どんなに人を自由に動かせても、死なない人はいません。
親しい人、愛する人も病気になり、死んでいきます。
最後は思いどおりにならないのが、宿命なのです。
2.大いなる存在に委ねる立場
(1)概略と特徴
人や物、起きる事も含めてこの世界のすべてを創ってるのは、大いなる存在と考える立場では、自分という個人ができることは何もないと言います。
世界は幻想であり、自分も含めて無や空であるとも言われます。
かつては宗教が、現代ではスピリチュアルなグループが、こうした考え方を採っています。
願いを放つことで結果を引き寄せる引き寄せなどもこの流れを汲むものです。
思考を観察することで、覚醒が進み、人生の悩みが消えていくという主張も、やはり同じ系統でしょう。
共通するのは、この世界で采配を振るのは、個の人間ではなく目に見えない偉大な存在であるという考え方です。
だから、現実的なことへの働きかけをしないのが一般的です。
祈りであったり、願いを書き出すことであったり、思考を観察することだったり、座禅を組むことだったり。
たしかに、これでうまくいけばいいでしょう。しかし、なかなかうまくいかないのは、以下のようなデメリットがあるためです。
(2)この方法の欠点
第一に、見たくないものから目をそらし、現実逃避するための言い訳に使われやすいことです。
自分で努力してもうまくいかないかもしれない、その結果を見たくない、自分のふがいなさを見たくない、ということです。
行動しなくてもいいのだと安易に考えてしまう人は、行動して傷つくことを恐れているのでしょう。
そうなると、大いなる存在につながるというより、自分の狭い世界に閉じこもることになってしまします。
第二に、取るに足りない小さく価値のない存在と自分を矮小化してしまいやすいことがあります。
かつての宗教でよく見られた、偉大な神と罪に塗れた自分という構図が典型的です。
これは宗教団体の幹部が、信者を支配するのに都合がよかったんでしょうね。もともと教祖の多くは、そんなことを言ってないと思うんですが。
こうなってしまっては、自分の力を明け渡すことになってしまうので、自分の力も、大いなる存在の力もどちらも使うことなく、誰かに翻弄されるだけになってしまうでしょう。
第三に、中途半端になりやすいということがあります。
行動しなくていいと思いつつ、それでは不安になって、ちょっと頑張ってみたり、やっぱりしんどくなって、またこの考え方に戻ってみたり。
自分の状態や周りの状況に応じて、都合のいい方をつまみ食いしていたのでは、何も起き得ません。
見たくないものを見ないようにしている点で向き合う覚悟がないし、何より自分を信じていないということですから。
どんな考え方であっても、一途に念じれば何らかの道は開けるのですが、あちこちフラフラしている人には、残念ながら決して何も成し得ないのです。
3.大いなる存在(大我)と自我(小我)の役割
(1)「行動」と「あり方」での説明
それでは、大いなる存在(大我)と自我(小我)の役割分担として、どのような形であればうまくいくのでしょうか。
それは、「行動(Doing)」と「あり方(Being)」によってうまく説明することができます。
上述のとおり、1.自分で努力する立場は「行動」を重視する立場でした。
なにしろ、行動しなければ何の価値もないとまで言われますから。
一方で、2.大いなる存在に委ねる立場は、「あり方」に重きを置きます。
すべての人が、行動しようとしまいと、存在しているだけで価値があるからです。
だから、それにふさわしい「あり方」が大切になります。
あり方とは、どんな状態で存在しているか、ということです。
たとえば、結果を出すために行動しない、何もしなくても価値がある、ゆえに、結果に価値をおかない、大いなる存在の一部である自分を認める、ことなどでしょう。
もし、このようなあり方でいたら、人はどのように振る舞うでしょうか?
ヒントは、自分のあり方がどうであったとしても、他の人には他の人の思惑があり、いろんな言葉を投げかけてくるでしょう。
また、宇宙は常に変化しているので、環境も常に変化し続けます。
そんななか、答えは、「(理想の)あり方を保つために行動がついてくる」ということです。
そして、人間という「あり方」にふさわしく行動するということでもあります。
簡単に言えば、目の前で人が困っていたら助けるというようなシンプルなことです。
ビジネスのようにやや複雑になると、求められてあり方に反しないならしてあげる、感謝の印としてお金を受け取るというようなことです。
このようにお金は結果としてついてきます。
お金は受け取るの?と疑問に思う人もいるかもしれません。
悟っているならお金なんて受け取らない??
でもそれだと、してもらう相手が気まずくなるかもしれません。悪い気がして、きちんと価値が受け取れません。
このように、自分だけでなく相手にとっての幸せも配慮された結果の行動となるのです。
自然界には、エネルギーの交換則というのがありますが、物やサービスとお金の交換は本質的にはなんら忌避するようなものではありません。
もし、お金のやりとりに抵抗があるとしたら、それは、無価値感や罪悪感などずれたあり方の産物と言えるでしょう。
同時に、決してお金が目的になるようなこともないのです。
(2)スキーでの体感
私は、この感覚を今冬に出かけたスキーによって体感することができました。
身体感覚は目に見えて五感で感じられるだけにイメージしやすいと思います。
スキーで例えると、大いなる存在とは、万有引力や摩擦など普遍的な物理法則のようなものです。
あり方とは姿勢。斜面に対して垂直方向に力がかかるよう、スキー板の真上に立つということです。
プロペラが羽根の真ん中に垂直に軸が通れば、軸を中心にスムーズにくるくる回転するようなイメージです。
この状態だとスキー板の性能によって、好きなタイミングで曲がっていくことができます。
そして、条件が、斜面の緩急、コブなどの凹凸の状況、視界、天候、温度などで常に変化します。
このとき、足の力や体のねじりでスキーを無理に曲げようとしてもうまくいきません。
たいていの場合、スピードに負けて体が後傾姿勢になっていることが原因です。
いわゆる屁っ放り腰というやつで、恐くて腰が引けた状態です。
どんな物事でも、こういうあり方だとなかなかうまくいかないでしょう。
たしかに急斜面で感じる恐れはかなりのものです。でも、正解は怖さを感じる方に体を投げ出すようにすることです。
急斜面でこれをやるのは本当に怖いです。でも、そこが面白いところでもあります。
そうすると身体が進行方向である谷側(斜面の下の方)に位置するので、結果的に斜面に垂直になるのです。
こうすると、しっかりとスキー板に体重が伝わるので、少しの体の移動でも、物理法則が味方してくれて、スキーの性能通りに面白いように曲がってくれるのです。
この辺りの感覚は水泳で、力を抜いて委ねると水に浮き、恐れで体をこわばらせると沈んでしまうのに似ているかもしれません。
まさに「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」でしょうか。
結局、スキーは、自分の力で曲げるのではないのです。
斜面に垂直という姿勢=あり方を保つために、最小限の動作(行動)を行うことで、自然に曲がるというもっとも望ましい結果が得られるのです。
スキーをしない人にはわかりづらかったかもしれません。(^ ^;)
自力で頑張るのでもなく、任せっきりで怠けるのでもあります。
自然界の法則に逆らわずに活用しながら、刻々と変化する状況に対応して、正しい姿勢(あり方)を保つために必要な行動を取るのです。
こうすることで、結果として、自然にうまくいくものだという感覚が伝わったらいいなと思います。
4.まとめ
小我と大我の関係が両立しないものでも、対立するものでもなく、互いに必要で協力することで、スムーズに現実を創造できたり、やがては悟りに迎えることがわかっていただけたでしょうか。
現実はスキーほど単純ではないかもしれませんが、両者が協力しあって働くにはまず「あり方」を整え、そして、保ち続けることが大事であると覚えておかれると良いと思います。
みなさんの人生がさらによくなりますようお祈りします。
以上