
この記事では、終末思想の特徴とその対処法について述べてみようと思います。
目 次
1.序文
このところの記事で、今の時代、すべての人にとって「悟り」が必要であることを順に説明しています。
ここで言う「悟り」は、初歩レベルから宇宙意識まで至る内的成長を幅広く意味すること
「今という時代」がもはや「悟り」という人間の本来の目的から目をそらすことが許されないこと、
を述べてきました。
しかし、今について言及するには、必然的に見たくない真実を同時に告げることになります。
具体的には、巨大地震が間近に迫っていることや、人間のエゴによる横暴な振る舞いにもはや地球が限界を迎えていることなど一見ネガティブなことです。
未来への希望を伝えたい私にとっては、この点がジレンマでした。
不安や恐怖を煽る終末論者と本当に自分は違うと言い切れるのか?
また、誤解されたり、非難されたりすることを恐れる気持ちが全くなかったとは言えません。
けれど、黙って口を閉ざしていることはエゴのための保身であり、結局、終末論者たちとあまり変わらないことに気づいたのです。
そこでやれることをしようと思って一連の記事を書いているのですが、そうすると自然に終末思想との違いがはっきりと見えてきました。
折しも、西日本が過去に経験がないほどの大雨に見舞われた七夕の日、オウム真理教幹部らの死刑が執行されました。
それはあたかも終末思想という落とし穴に注意せよとの天意であるように感じました。
2.人はなぜ終末思想にハマるのか
結論を先に言うと、終末思想とはエゴにとっておいしすぎるツールだからです。
基本的に、終末思想にハマる人は弱い人間です。
だから、自分のことも好きではありません。
そのような人間にとって、終末思想は次のようにいいことだらけなのです。
(1)自分の怖さが和らぐ
終末思想を周りに振りまいて他人の恐れや不安を煽ろうとする人は、実は自分も非常に怖がっています。
でも、あまりそれを意識できていません。怖がっている弱い自分を認めたくないからです。
それほどまでに弱いわけなのですが。
でも、自分が怖い話をして周りの人を巻き込んでいくうちに、自分の怖さが薄れます。
現実的には感情エネルギーの転移が起こっているわけですが、お化け屋敷やジェットコースターで自分よりもっと怖がる人がいると、なんとなく怖さが薄れるのに似ています。
(2)自分が特別な人間であるように感じる
終末思想は歴史的に選民思想と深い関係があります。
特定の思想や宗教、考え方を採っている自分たちだけは、救われる、助かる、救済されるという考え方です。
今の世の中で、世界の終わりを唱えてもいっちゃってると思われるだけで、ほとんどの人は見向きもしないでしょう。
あのオウム真理教も最初は政治を通して世直しを掲げ、1990年には衆議院議員選挙に20人以上が立候補しました。
そして、全員落選。
そうなると、自分たちの崇高な教えや警告を理解できない無知蒙昧の大衆として、ほかの人々を見下すという経過を辿ります。
自分たちは選ばれた者であるから自分たちだけは助かると、自分自身を騙して信じ込み安心していられるのです。
(3)支配欲求を満たせる
一方で、さらに弱い人々のなかには、誰でもいいからすがりたいという依存的な人も一定の割合で存在します。
そういう人は終末論者が発する情報に心底怯えてしまい、なんとか助かる方法はないものか、なんとかして欲しいと自分の運命を委ねてしまいます。
それどころか、そのような情報を発する人を高い精神的境地にある人、果ては救世主として崇めてしまいます。
すると、そのような責任放棄した人たちを自由に操ることで支配欲求が充たせるようになります。
また、なんでもいいなりなのでお布施や寄付を求めたり、高額の魔除けを買わせたりして金儲けもできるのです。
(4)自分が社会にとって有用と感じられる
終末思想を振りまく人たちは、社会や他人のために役に立っている気になれます。
実際は、害毒を垂れ流しているだけですが、そんなことは露ほども思いません。
社会に警鐘を鳴らして社会正義を実行しているつもりになれるのです。
これはちっぽけで弱い自分を見たくない、ええかっこしいのエゴにとっては大変有意義なのです。
(5)自分に都合の悪い現実を壊したい
終末思想を流布する人は、実はハルマゲドンを待ち望んでいます。
人生うまくいってない人が多いので、世の中がめちゃくちゃになってくれて幸せな人が自分と同じところまで下りてくるのがうれしいのです。
テストが不安でしようがない学生が、学校が火事になってくれないかと願うというのともちょっと似ているかもしれません。
また、終末思想なんか広めていると周りからバカにされるので、自分の正しさを証明したいと考えています。
つまり、世界が終わるより、自分の正しさの方が大事な人たちなのです。
(6)自分の弱さ、醜さを見ないで済む
このように終末思想にのめり込むことで、自分さえよければというエゴイズムをうまくコーティングできます。
世のため人のために声をあげたり、怯えている人を教え導たりする自分に酔えるのです。
本当は自分が不幸だから世の中が壊れればいいと願い、そのくせ怖くて仕方なく、自分さえ助かればいいと思っているエゴにまみれた卑怯な自分。
そこに直面できれば成長もあるのですが、エゴは現状維持による保身しか身を守る術を知りません。
だから、都合の悪い事実からひたすら目を背けようとするのですが、そんなエゴにとって終末思想はとても都合がよいものなのです。
3.終末思想の弊害
前項でみたように、週末思想にはまってしまった人たちは、孤立化、先鋭化、過激化し、暴力的になります。
原理主義者に対して、教典やマニュアルどおりでないと気が済まず、融通がきかない、現実のあった対応ができないという見方があります。
要するに、観念的で、オールオアナッシングで、完璧主義なのです。
インナーチャイルドが癒されておらず、幼い子供みたいなものです。
とはいえ、精神年齢が幼くても知能指数的には高かったりするので厄介です。
今の時代、実際に危機はあるのですから、理路整然と説明すれば伝わる人には伝わります。
そして、最後に希望ではなく絶望というエッセンスを添加するだけです。
多くの人がそれを受け入れ、暗い気持ちになればなるほど、集合意識はネガティブな影響を受けてしまいます。
そうすると現実も、集合意識の周波数の方に引っ張られていってしまうのです。
4.終末思想の見分け方
このように歴然とよくないことだらけのように見える終末思想。
けれど、それがなくならないのは、本人もそれと気づいていないことが多いからです。
また、初めは純粋にフラットに危機を伝えていたのが、実態を知れば知るほど怖さが増して、恐怖に取り込まれてしまうというケースもあると思います。
そして、そこに属することでエゴを満たそうとする、つまり、いろんな意味で自分を守ろうとする人が多いということでしょう。
人は弱い生き物ですから。
そこで、終末思想かどうかを簡単に見分けるコツを考えてみましょう。
(1)本質
一番確実な方法は、その情報が何に基づいているかを感じてみることです。
愛と信頼をベースとしているのか、不安や不信をベースとしているのか。
ベースというのは、そんな気持ちから言動が発しているかどうかということです。動機といってもいいでしょう。
現実は、意識の中にある波動から作られているので、同じような現象に見えても、最初のベースによって発展する方向が大きく異なります。
見分けのつきにくい現象を判断するには、一番確実なのです。
(2)言動
一方で言動については惑わされることも少なくありません。
小利口で耳ざわりのいい言葉を並べる人は多いですし、本人も気づかないうちに変わっていくケースもありますから。
キーワード的に上げておくと、救済を主張したり逃げることを勧めていたら要注意かもしれません。
救済がまずいのは、弱者と依存を作り出すためです。
本来人は自分の人生を主体的に生きており、自分を救うのは自分以外にありえないと思っています。
自分以外の存在に自分を救うかどうかを委ねた時点で人は弱くなり、不安に苛まれることになるのです。
また、逃げるも基本的にはNGなワードです。
それは直接的に逃げるというより、健康的な生活とか、心身の浄化とか、精神の進歩といった耳ざわりのよい名目でカモフラージュされていることが多いかもしれません。
上記は低俗な(と自分が判断した)世界と線を引き(分離し)、世界を見捨てて自分たちだけが逃げるという意味で不安と不信ベースです。
結局、「悟りの道」を歩くことさえ、自分さえよくなればよい、助かればよいという動機であれば、エゴイズムが形を変えただけなのです。
5.天罰は下らない
では、終末思想に陥らないために、今、目の前にある危機をどのようにとらえていけばいいのでしょうか。
人類の終焉をもたらす要素は色々あると思いますが、まずは自然災害について考えてみましょう。
人類の欲望を満たす活動でもはや地球がもたないと言うと、天罰が下るとか地球が怒っているという捉え方をする人がいます。
人間が罪を犯したので,
たとえば天が罰するというような考え方です。
これはハルマゲドンを連想させ、簡単に終末思想に結びつきます。
決して天罰などは下りません。
人の行いがそれに応じた現象を引き寄せているだけです。
地球も怒ってなんかいません。
人類の成長を信じ、じっと見守っていてくれます。
しかし、地球の健康自体が脅かされるほどになり、人類が自滅していくのを悲しんでいます。
環境問題の標語でセーブ・ジ・アース「地球を救う」なんていうのがありましたが、思いは別にして、実に身の程知らずな言い方だと思います。
事実としては地球にとって人類が何をしようが痛くもかゆくもない。(実際は、上記のように悲しんでいると思いますが)
極端な話、何千発もの核兵器を爆発させて人類が滅んだとしても地球は一向に平気です。
他の生物にとっては迷惑な話でしょうが、地球自身は何千万年、何億年という歳月をかけて浄化して健康体に戻っていくでしょう。
結局、人類の自作自演劇場であることがわかります。
その演劇を悲劇とするかどうかは、これからの私たち次第です。
6.絶望の時代は希望の時代
地球の環境問題は各国のエゴが絡んで袋小路だし、日本が置かれた状況も本当に過酷だしで、たしかに一見すると、終末論者が言うように、状況は絶望的かも知れません。
しかし、全てのものごとはニュートラル、中立であるというのが真実であり、法則です。
デメリットの裏にはメリットが、影の反対には光が同じだけあります。
当然、自然災害についても同じです。
たとえば、人間が人生で本当に考えるべき問題に向き合えること、今までのような先延ばしをしなくなること、多くの人が内的成長に真剣に取り組むようになることなどが考えられます。
人類が滅亡するかどうかというスケールの大きい話だけに、そこから受け取るメリットもまた巨大なものです。
もし、この機会を生かすことができたらと言う意味で、今は希望の時代であるともいえるでしょう。
目の前の事象を目覚めるきっかけにできるかは私たち次第なのです。
7.まとめ
目の前に迫った困難な時代。環境破壊や自然災害は決して望ましいものではありません。
しかし、この時代を生き抜いて、より明るい未来を現実のものとすることは十分可能です。
そのための一歩目として、終末思想に汚染されないで、かつ、事実を知り周りに伝えることが大切なのです。
以上
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