
以前このブログでも採り上げた小池龍之介さんという東大卒のお坊さんがいらっしゃいます。
いや、僧侶は辞めたらしいので、いらっしゃいましたというべきか。
小池さんは、去年の年末ごろ、自分が解脱間近であることを公言し、解脱を目指して放浪の旅に出ました。
しかし、この3月に解脱失敗という結果をある出版社に連絡してこられ、その顛末をユーチューブの音声で公開されました。
解脱間近という自己認識が見誤りだったこと、人の心を惑わしてしまったことを詫び、還俗して僧侶をやめ、瞑想指導をはじめ人を教え導くこと一切から身を引くということでした。
私も音声を聞きましたが、小池さんなりに真剣に向き合い悩んだ末の結論であることが窺えて、彼の誠実さを感じました。
一方で、残念な思いを禁じ得ませんでした。
彼のように真面目に心の成長に取り組み、社会に対して影響力のある方が、表舞台から去ってしまうことに対して。
人々の心が本質的なものに向かうよう、まだまだ活躍できたのにと思うと残念でなりません。
私には、小池さん個人の失敗というより、仏教の持つマイナス面、特に、日本人との相性の悪さが引き起こした出来事であるように見えました。
小池さんの言動の是非について、評価したり批評したりすることが、この記事の目的ではありません。
以下では、仏教的な悟りへのアプローチと日本固有の悟りへのアプローチを比較し、日本人が悟りを目指す上での長所短所について考えてみました。
精神的成長を目指す方の参考になれば幸いです。
目 次
1. 仏教とは何であるか
まず、あらためて仏教とは何であるか考えてみましょう。
現代では、葬式仏教と揶揄される仏教ですが、もともとは精神性の向上を目的としていました。
ここで考えるのは、そのような文脈における仏教です。
私は個人的に、仏教を「苦の科学」であると考えています。
もともと仏教は、教祖である釈尊が人生につきまとう「苦しみ」を何とかしたくて出家したことに端を発しています。
王族として生まれ何不自由ない暮らしをしながらも、生きていくなかでどうにもならない苦しみが、彼を探究へと駆り立てました。
釈尊は、厳しい修行の末、それまでの苦行に見切りをつけ、菩提樹の下で瞑想し、悟りを開きました。
そして、ブッダとなった彼は、苦しみがどのようにして発生するのか、その原理、手放すためのメカニズム、具体的な方法などを事細かく伝えました。
苦を滅することで悟りが訪れる。それが仏教的な悟りへのアプローチです。
その考え方は非常に合理的で、現代の私たちが読んでそのまま納得できるものです。
仏教は宗教というより、苦しみにうまく対処して幸せになるための人生哲学といった趣があります。
2. 日本固有の悟りとは
現代の日本では、悟りというと仏教をイメージする人が多いようです。
しかし、日本には仏教が伝来した6世紀よりはるか以前から、独自の精神性の高みを目指す文化がありました。
それが縄文古神道です。
縄文古神道の遺跡として、天にある神様を地上に降ろす依り代としての巨石群があります。
岩に刻まれた星座を年代測定すると1万2000〜3000年前のものだそうで、縄文時代初期という気の遠くなるような昔です。
以前は縄文時代は狩猟採集の原始的な時代と考えられていましたが、最近の考古学の成果で、縄文時代に対する見方が変わってきています。
縄文時代から稲作が始まっており、大規模な集落があり、遠距離の交易も行われていたようです。
平和な時代が1万年以上も続いたと考えられます。
巨石を動かす技術の存在が暗示されることから、失われた古代文明との関係も可能性としては考えられるかもしれません。
そんな人々の精神性の柱であったと考えられる縄文古神道の考え方の特徴は、大きく次の3つです。
- 自然全てに神を見い出すこと
- 人は神の御霊を受け継ぐ神の子
- 人間の本質は光でその性質は善である
生きていくうちに罪や穢れがつきますが、禊や祓いによって余計なものをそぎ落とすことで神へと還る、すなわち、悟りに至ると考えます。*
*『古神道入門』小林美元
3. 仏教における悟りへのアプローチ
このように仏教と縄文古神道では悟りへの考え方、アプローチが全く異なります。
仏教は苦を滅することにフォーカスするのに対して、古神道は本来の状態である光に戻ることを目指します。
実は、仏教にも、草木国土悉皆成仏(そうもくこくどしっかいじょうぶつ)という言葉があり、心を持たない植物や土石などもすべて仏性を有するという考え方があります。
ですがもともと、人生は思い通りにならないこと=「一切皆苦」を教えの出発点としたインド仏教にそのような発想はありませんでした。
苦からの解放を目指して、お釈迦様は次のように言います。
「生きるということは思い通りにならないものだから、執着を捨てなさい。執着を捨てれば涅槃に達することができるから、そのために修行をしなさい」と。
その方法が、「八正道」と言われる正しい行動であり修行法です。
一方で、心身にまとわりつき執着を呼び、心をかき乱す欲望として、五つの煩悩があります。
色欲、食欲、財欲(金銭欲)、睡眠欲、名誉欲(権力欲)の五つと言われます。
これらの煩悩に屈せずに八正道を実践することが肝要となります。
このため、必然的に仏教はストイック(禁欲的)な性質を帯びることになります。
4. 仏教が日本人に合わない点
私は、このストイックさが日本人の性質に合わないと思っています。
その性質とは以下の3つです。
- 素直、正直
- 真面目、几帳面
- 悲観的
一、二は言わずもがなと思います。
三番目の悲観的については、日本人にいわゆる不安遺伝子を持つ人の割合が高いことということで、遺伝的に証明されています。
この性質が仏教と結びつくとどうなるか。
一言で言うと、暗くなってします。
また、真面目なので完璧を目指そうするけど、人間だからそう完璧になんてできるものではありません。
するとまた深刻に捉えてしまってますます暗くなってしまう。
この悪循環です。
特に、人間の自然な欲求を煩悩として押さえつけようとするので、その苦しみは大変なものになります。
特に、色欲(性欲)には、多くの真面目な仏教実践者が苦しんできました。
若い頃の親鸞聖人もその一人で、色欲から生まれた人間がどうして色欲から逃れられようかと思い悩んでいたそうです。
冒頭の小池さんも懺悔の音声で、放浪の旅の途中、克服したと思っていた性欲から自由になっていなかったこと、つまり思ったより修行が進んでいなかったことがわかって、ひどく落胆したことを語っています。
5. 古神道が日本人に適する点
一方、日本人の性質を見るにつけ、古神道はぴったりマッチしています。
すなわち、人は神の子だから否定されるものはなく、あるものをそのまま認める考え方です。
すべてに対して肯定的なのです。
また、明るさや笑いを大切にすることもそうです。
いずれも悲観的な傾向を持つ日本人にとっては、自分を肯定し心を明るい方へと向けてくれます。
一方で、古神道では自然への畏敬心をとおして、人が自然と調和して生きることを教えています。
具体的には、日々の生活習慣や祭りや催事などの年中行事を執り行うことで、それらを身につけます。
そこでは、日本人の真面目さや素直さがプラスに働きます。
決められたことをきちんと行うことで、自然に対して人間が傲慢にならないこと、調和して生きることを身をもって学べるからです。
したがって、かつて日本では性欲に対する捉え方も肯定的で、きわめて大らかな接し方をしていました。
古神道のアプローチでも、悟りに近づくにつれて、性欲に振り回されるようなことはなくなっていくでしょう。
しかし、それは無理に押さえつけて結果という形を得るものではありません。
心が成長した結果として、自然にそうなっていくのです。
抑圧のように何かを行って結果を得るのではなく、自然にそうなるように持っていくという考え方こそ、不要な痛みもなく、反動が出ることもない、合理的なアプローチです。
なによりも、悟りに向かう道すがらが、明るく喜びに満ちたものとなりやすいという点で、仏教のアプローチより好ましいと私には思えるのです。
6. 承認欲求という落とし穴
最後に、特に仏教において気をつけるべき、承認欲求という落とし穴について触れておきます。
仏教の五大煩悩で言えば、名誉欲でしょうか。
悟りという最高の境地に達することで得られる他人からの承認に対する欲望です。
世俗の名誉や名声に興味がなかったとしても、精神性という別の物差しで人より優れたいと思うことです。
お金や物、地位や肩書きを求めることはくだらない、精神の高みを追求する自分の方が大したものという錯覚もこの承認欲求からくるものです。
(1) 超越体験を得たいという欲求のワナ
いわゆる超越体験や神秘体験を求めがちなことも同様です。
超越体験とは、意識が普段と違った状態になり、一時的に目に見えない世界の領域に周波数が合うような状態になることです。
正当な手順で悟りの状態に達したならば、見えない世界にアクセスすることはできると思います。
だからといって、逆は必ずしも正しいとは限りません。
あくまで何かの拍子で一時的にそうなっただけなのに、よくあるのは自分が悟ったと勘違いしてしまうことです。
そうでなくても、超越体験に執着してしまいのちの取り組みがグダグダになることも多いでしょう。
見えない世界といっても、神仏のような存在から、タチの悪い低級霊のような存在までいろいろあるわけです。
低級霊は最初から正体を見せず、神仏を装ったり、最初は最もらしいことを語ったりします。
そういう存在とコンタクトしていると、だんだん結びつきが強まって引っ張られることになってしまいます。
(2) 瞑想にも落とし穴が
現代の人が超越体験を得ようとした場合、修行のようなものもありますが、何と言っても身近なのは、瞑想や坐禅でしょう。
その際、超越体験と並んで気をつけたいのが、「禅病」と呼ばれる状態です。
症状は、誇大妄想などの統合失調症のようなもののほか、幻覚・幻聴、感情の起伏に飲み込まれる、頭痛などです。
超越体験までは至らないまでも、瞑想中に意識の拡大が起こり、現実と心の世界の境界が不明瞭になってしまい、心身に混乱をきたします。
「自分は悟った」と思ったら、まず間違いなく禅病と思った方がいいと言われています。
そのために、仏教の世界では、自分の状態を見てくれる師匠につくのがよいと言われているようです。
7. まとめ
現代では悟りといえば仏教の専売特許という風潮がありますが、日本にはそれよりはるか以前から伝わってきた悟りの道がありました。
それだけではなく、古神道的な悟りへのアプローチは日本人の気質にとても合ったものであり、日々の生活を幸せにしてくれるものです。
当たり前すぎて歴史の表舞台に登場しない古神道的な価値観こそ、日本人の心の底流にあって、人々の精神性を支えていたのではないかと思います。
令和を迎える今こそ、日本固有のすぐれた思想を見直すべき時期ではないでしょうか。
以上