
マインドフルネスと悟りに深い関係があることは多くの人が知るところです。
マインドフルネス瞑想の真髄は、仏教に伝わるヴィパッサナー瞑想にあります。
ゆえに、ヴィパッサナー瞑想は釈迦が悟りを開いた瞑想であるので、マインドフルネスは悟りと深く関わりがあります。
これは方法が同じということをいっているわけですが、この記事では「今ここ」をキーにして両者の深い関係を見ることにします。
目 次
1. マインドフルネスとは
(1) マインドフルネスの定義
まず、マインドフルネスの定義を復習しておきましょう。
西洋社会におけるマインドフルネスの第一人者であるジョン・カバットジンの定義を参考にさせてもらい、マインドフルネスとは、
「今この瞬間の体験に心を集中させ、評価・判断をしないでありのままを観察すること」
とします。
これをやさしくいうなら、「〜している自分に気づいている(自分を意識している)状態」と言えるでしょう。
(2) 集中と気づき
よく誤解されるのが、集中している状態との混同です。
マインドフルネスの定番である呼吸瞑想などでは、呼吸に意識を向けて集中することをマインドフルネスに入るためのとっ掛かりとしています。
それがこの誤解の元になっているようですが、集中と気づきは違います。
たとえば、本を読みふけったり映画に観入ったりしている時はどうでしょう。
本や映画に夢中で周りで起きていることには全く気づいていません。
これは集中していますが、マインドフルではありません。
呼吸瞑想のように、呼吸に集中し、かつ、呼吸している自分に気づいているのがマインドフルネスです。
これで、集中○:気づき×、集中○:気づき○という2つの状態を説明しました。
次に、集中×:気づき×の状態について説明しましょう。これは現代社会では、多くの人が普段いる状態かもしれません。
言ってみれば「自動操縦ロボット」みたいな状態です。漫然と考え事や気がかりなことに頭を巡らせながら、歩いたり、歯を磨いたり、食べたりしています。
ぼーっとしているような状態で、ひどくなると上の空でどの道を歩いてきたのか、いつのまに歯を磨いたのか、食べたものの味を全く覚えていなかったりします。
もちろんマインドフルとは対極のマインドレスな状態です。
最後に、集中×:気づき○という状態について。
これは典型的には深い瞑想状態で現れる、最終的に目指したい状態です。
特定の何かに注意が向いているわけではなく、すべてに意識が向いています。
それも緊張してすべてを捉えるぞと力んでいるのではなく、リラックスしていながら隙がない状態です。
先ほども述べたように、マインドフルネスになるために集中をとっ掛かりとしますが、最終的にはこれも手放すのです。
これがもっともマインドフルな状態です。
2.「今ここ」の無限性
マインドフルネスがわかったところで、定義にある「今この瞬間の体験」について考えてみることにします。
歩いていることを感じることを例にとりましょう。
「今わたしは歩いている」というとき、歩くという動作にはある程度の時間の経過を前提にしています。
「今」を数秒間として捉えていると、「私は歩いている」と表現できます。
もっと細分化して、今を0.1秒と捉えることもできます。
そうすると、たとえば右足を上げた、運んだ、下ろした、左足を上げた、運んだ、下ろしたという歩くという動作を細分化したうちのどれかの状態になるかもしれません。
「今」は、さらに細分化することも可能です。
右足を上げる際に、まず、かかとが地面を離れ、土踏まずが離れ、母指球が離れ、小指、薬指、ときて、最後に親指が離れる、そのどれかの状態になるかもしれません。
このように、今を際限なく細分化していくと、気づきの対象となる状態もまた無限に増え、どこまでも精緻に今の状態を捉えることが可能です。
もちろん言語化、意識化できるのは限界がありますが、気づいている主体は顕在意識を超えた存在ですし、顕在意識が及ばないことは、気づきの主体である存在が目覚めるには却って好都合かもしれません。
一方、「今ここ」における「ここ」の概念も無限の広がりを持っています。
一般的に、自分が今いる場所のことを指しますが、周りとの関係で広くなったり狭くなったりします。
単に、ここという場合は、自分がいる部屋とか、広場とか、建物とかでしょうか。
では、大阪から来た人に対して、ここが東京だよという場合、外国から来た人に対してここは日本だよという場合、東京都や日本という概念によるエリアの全部がここになります。
もちろん、その範囲が見えたり聞こえたりはしませんが、意識することは可能です。
古代インドのリシと呼ばれた聖者は瞑想して自己の内部に深く入ることで、広大な宇宙の成り立ちや仕組みを知っていたそうです。
その言葉は、現代科学の研究成果と驚くほど一致しているそうで、それが想像などではなかったことがわかります。
このように肉体と五感の制限を超えて、ここの気づきを拡大し続けることも可能なのです。
どこまで?
宇宙は無限なので、これもまた無限ということになるでしょう。
つまり、「今ここの体験」に気づいているというとき、気づきの対象は、時空間という二つのベクトルで無限の広がりを持っているのです。
3. 本当の自分とは何か
(1) マインドフルネスの実践でわかる二人の自分
次に、マインドフルであったり、悟ったりする主体としての私たちについて考えてみます。
マインドフルネスの定義において、二人の自分がいることにお気づきでしょうか。
「今この瞬間の体験に心を集中させ、評価・判断をしないでありのままを観察すること」
つまり、体験している自分と観察している自分の二人です。
体験とはつまり、体を動かしたり、感情を感じたり、思考したりと、自分がするあらゆる活動のことです。
一方、観察する存在とはその体験をしている自分に気づいている存在で、体験する自分は別物です。
一般的な自分、私とは前者の自分です。いつも外側の何かに注意を取られ、時に集中し、時にぼんやりと散漫になったりしています。
そして、時々はっと我に返って、腹を立てたり何かを心配したり、とても幸せを感じている自分に気づいたりする、それが後者の自分です。
このように、誰しもほんの短時間なら後者の自分を経験しています。
でも、この後者の自分は注意していないとすぐに失われてしまいます。
短ければ数秒、長くても1分も経たず、再び前者の自分として何かの体験に没入していきます。
だからこそ、二つの自分をきちんと区別して、後述するように後者の自分を保つ必要があるのです。
(2) 本当の自分とはなんなのか
マインドフルネスの訓練とは、後者の自分をなるべく長く保つためのものです。
なぜならそれが本当の自分だからです。
体験に気づいている存在。
それは肉体を持たず、限界を持たず、男でも女でも人間ですらない、気づきそのものです。
その気づきは、<それ>とか英語で it や that と呼ばれることもあります。
モーゼに神託を下した存在が伝えた ”I am that I am.” の that ですね。
神、宇宙意識、普遍意識、全にして一なるもの、サムシンググレート、タオ、、、
なんと呼んでもいいですが、そういった宇宙の本質的な存在が表われ出たものです。
また、<それ>は、例えるなら体験を映し出すスクリーンのようなものとも言われます。
映画のスクリーンは真っ白であるからこそ、フィルムに光を当てて投影されるどんな映像でもきれいに映し出すことができます。
<それ>も同じようなもので、映画と違うのは3次元立体で、視覚聴覚にとどまらず、触覚、味覚、嗅覚も伴った超リアルなスクリーンということです。
もしくは、「世界に向かって開かれた窓のようなもの」であり、窓の内側から観察する本当の自分とセットのようなものです。
マインドフルネスにいる時間を長くすることは、<それ>とのつながりを太くすることなのです。
では、体験の主体である今まで自分と思っていた自分とはなんでしょうか。
この<自分>は、映画で言えば、主人公のようなものです。面白い映画に夢中になっているとき、主人公との一体化が起きます。
同じようにドキドキしたり、腹を立てたり、恐怖を感じたり。
その時、映画を観ていることをすっかり忘れているかもしれません。
現実世界でも同じようなことが起きていて、本当は<それ>であるのに、生まれてこのかた<自分>と思い込んでいたというわけです。
4. マインドフルネスを深めると悟りに至る
本当の自分である開かれた窓のような自分。
無色透明でどんなものをも映し出すことができ、窓とは言うものの縁(ふち、へり)もありません。
広大な宇宙さえすっぽり入ってしまいます。
そのような窓を観ている気づきの主体が、マインドフルネスが深まるにつれて、より深く、より繊細に、より拡大していきます。
気づきの主体である存在が力を増していき、あるレベルに至った状態が解脱や悟りと呼ばれる段階であると考えます。
先ほどから述べているように気づきの対象は時空間において無限なので、悟ったあとも肉体を持った個人としての心の成長は続きます。
普遍意識とのつながりの強さにおいて、悟り以上の段階がきっとあるだろうと想像しています。
地球人類のレベル(の低さ)からみて、広大な宇宙に存在するであろう、より調和的に進化した人類はより高い境地にあるはずというのがその理由です。
5. まとめ
多分に感覚的な説明になってしまいましたが、改めて「今ここ」の奥の深さに感じるところがあったので、記事としてまとめてみました。
分かる人に、なんとなくでも伝わればればいいかなと思います。
とはいえ、私もまだなんとなく感じていることを、これまでの知識や理解を用いて言葉にしたにすぎません。
マインドフルネスの実践を通じて、気づきという普遍的価値を実感として確認していこうと思います。
以上